「総力戦」に抗する国体

吉田裕*1『日本軍兵士』から。
「国力を超えた戦線の拡大や、、戦争終結という国家意思の決定が遅れた背景には、明治憲法体制そのものの根本的欠陥がある」という(p.156)。その「欠陥」とは具体的には「統帥権の独立」と「国家諸機関の分立制」である。ここでは、後者についてメモしておく。


明治憲法は、国務各大臣が所管の事項に関して単独で天皇を輔弼する制度=国務各大臣による単独輔弼制を採用していた。国務各大臣は内務省・大蔵省・外務省などの各省のトップでもあったから、それだけ各省の自立性が高かった。そのことは内閣総理大臣の権限が弱いことと裏表の関係にあった。
内閣総理大臣は、内閣の首班として閣議を主催するが、その地位は国務大臣中の第一人者にすぎず、国務各大臣に対して命令する権限を持たなかった。また、国務大臣の任命権は天皇大権に属すため、国務大臣を罷免したり新たに任命知る権限も内閣総理大臣はもたなかった。
くわえて、陸海軍も一枚岩ではなかった。対政府、対議会の関係では「共闘」することが多かったが、制度上は、軍事行政を担う陸軍省海軍省が対等の関係で分立し、作戦や用兵(戦闘のため実際に軍隊を動かすこと)を担う参謀本部と軍令部が、それぞれ陸軍省海軍省から独立して存在していた。
さらに、内閣以外の領域でも、内閣に対しては、国務に関する天皇の最高諮問機関である枢密院が、衆議院に対しては皇族や華族などが中心になって構成される貴族院が、相互に対抗し、牽制する関係にあった。また、昭和天皇が即位すると、宮中の官職である内大臣侍従長天皇の側近グループとして、政治的影響力を増大させるようになる。
なぜ、このような複雑な制度設計になったのか。それは、明治憲法の起草者たちが政治権力の一元化を回避しし、あえて政治権力の多元化を選択したからである。彼らは、伸長しつつあった政党勢力が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して天皇の地位が空位化することを恐れていたのである。(pp.161-162)

日中戦争以降、本格的な総力戦の時代が始まる、総力戦では国務と統帥を統合し、統一した国家戦略に基づく強力な戦争指導が求められる。明治憲法体制下の分立した国家システムでは時代の要請に応えられないことは明らかだった(p.162)
そこで1937年11月に設置されたのが「陸海軍の最高統帥機関としての大本営」であり、「大本営首脳部と政府首脳部」から構成される「大本営政府連絡会議」、「御前会議」だった(pp.162-163)。「しかし、連絡会議、御前会議に法的な根拠があったわけではな」く、「多元的で分権的なシステムもそのまま温存されたので、結局は国務と統帥の連絡・調整機関にとどまった」(p.163)。
保守主義者」としての伊藤博文の面目躍如! とも言いたくなるけれど*2、問いは逆方向に立てられて然るべきだろう。つまり、にも拘らず何故チェック&バランスは機能しなかったのか?