幕府(メモ)

承前*1

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/340717/


『産経』の榊原智という記者が亀井静香の〈天皇は京都へ発言〉をdisっている。威勢のいい文章にも拘わらず、言っていることはけっこう実務的だな。曰く、


首相は国会の指名だけで就任できない。天皇陛下から任命されて初めて首相になる。最高裁長官も陛下の任命だ(憲法6条)。

 国事行為(憲法7条)は多岐にわたる。閣僚は天皇陛下の認証で国務大臣となる。副大臣検事総長、大使ら認証官も同じだ。法律、政令、条約の公布、国会の召集、衆院の解散、総選挙の公示、勲章の授与も国事行為だ。すべて陛下の御署名と御押印が欠かせない。海外からの賓客とのご会見、各国大使の信任状奉呈式など外交行事も多い。

ここでは自分の政治信条に反して天皇制維持を前提にして言えば、東京と京都の距離なんて新幹線で3時間足らずじゃないかということだ。天皇の国事行為というのは1秒を争うような性格のものではない。これとは話が外れるが、天皇の加齢や健康状態が云々することが多いようだが、そもそも死ぬまで天皇をやらなきゃいけないというのが酷い話なので、明治期に廃止された上皇制度を復活すればいいだけの話。
また、榊原曰く、「政治家の権力行使よりも高い次元で、陛下は国を統治されている」。この人は立憲君主制を表す、君臨すれども統治せずというフレーズを知らないのか。
そして、


http://d.hatena.ne.jp/pr3/20091229/1262099101


これは上の榊原の文章の最後の、


皇居を東京の政府から離せば、陛下のお務めに支障を来す。江戸城跡からお出になればかえって、幕府が政治を専断した「江戸時代」に戻る皮肉な事態になりはしないか。
という部分への反論だろう。曰く、

 どうやら榊原記者は、幕府の仕組みを知らずに現在の象徴天皇制とと幕府支配を比較しているようです。「幕府」とか「将軍」って、そもそもどういう意味だかご存知なんでしょうか。天皇に任命された征夷大将軍の略称が「将軍」であり、征夷大将軍の居場所、転じて指揮組織が「幕府」です。鎌倉・室町・江戸幕府の歴代将軍40人、また幕府を持たなかった征夷大将軍を含めた47人はすべて、天皇の勅命を受けてはじめて「将軍」と名乗ることが許されました(鎌倉幕府以前や建武政権にも征夷大将軍の役職は存在しましたが、臨時職であって世襲制ではなく、全国を支配する体制としての幕府を開くこともありませんでした)。実際にはもちろん、前の将軍が亡くなると鎌倉や江戸の幕府内で「次は長男の誰それが」「今回は嫡男がいないから水戸家から」とかやって後継者が決められ、申し出を受けた時の天皇は(当時はいちおう拒否権があったはずですが)淡々と勅令にサインして、次の将軍が正式に決められました。これが700年間行われていたわけです。武家政権時代は将軍が日本国王であり、天皇は将軍から経済面などで保護を受けるかわりに、権威を与える役割を担っていました。

 さて、幕府体制の終了後、明治政府から大日本帝国憲法にかけて、天皇が絶対権力者である時代が80年ほどありました。そして日本国憲法の時代になり、立憲君主制のもとで象徴天皇制となり、政府の最高責任者である内閣総理大臣は、国権の最高機関である国会の指名に基づいて天皇が任命し、ある種の権威を与える形態となっています。

 ここまで書いておけばいまさら言うまでもないでしょうが、世襲で選ぶか民選の国会が指名するかなどの違いは別として、天皇の立場から見れば、幕府体制と現憲法は同じ象徴天皇制です。「戻す」も何もありません、すでにそうなのです。いや、解釈の違いもあるだろうし、この点に気づかないのが悪いとは言いませんよ。言いませんけど、それにしてもしかし、「幕府体制では天皇は実権を持たず、単に権威の象徴だった」っていうのは、小学校の社会科(日本史)でも必ず習うことですよ? (たとえ、つくる会版中学教科書あたりに載っていないとしても)。

鎌倉時代においては幕府−朝廷間にもっと複雑な葛藤があった筈で、それほど単純なものではなかったろうということはあるにせよ、大枠としては間違っていないと思う。1箇所突っ込ませていただくと、「水戸家」から徳川将軍の後継者候補が出ることはあり得ない。将軍に直系の後継者がないときには、御三家のうち紀伊尾張から候補者が出るのであって、水戸から出ることはありません。最後の将軍徳川慶喜はたしかに水戸家の生まれですが、一橋家に養子に入り、一橋家から本家を継いだわけです。いま一橋家の名前を出しましたが、徳川吉宗が御三家のほかに将軍候補者を出す家系として、御三卿(田安、一橋、清水)を創設したわけですが、その意図が将軍家と御三家との距離を取ろうとしたというところにあったのかどうか、わかりません。識者のご教示を乞う。副将軍という役職が正式に存在したのかどうかもわかりませんが、水戸家は御三家の中でも家格が1ランク下と目されている一方で(紀伊尾張が大納言なのに対して、水戸は中納言)、水戸家は参勤交代を免除され、当主は江戸常駐を原則とするという特異な地位にあったことはたしか。水戸家の家格が下であるということは、たんに藩祖、徳川頼房が家康の末の息子であったからであり、〈長幼の序〉という原則に照らせば当たり前のことだと観念されていたということは想像に難くない。なお水戸家については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090808/1249759989も参照のこと。
上に、「鎌倉時代においては幕府−朝廷間にもっと複雑な葛藤があった筈」と書いたけれど、当時「幕府」制度という枠組は自明の前提とされていたようで、俗に「幕府」体制を打破して〈天皇親政〉を復活せんとしたと言われている後醍醐帝の〈建武の中興〉にしても、右翼思想家だった村松剛がその著書『帝王後醍醐』*2において、天皇自らが「幕府」を開いたようなものだと記していたことを思い出した。幕府と天皇の関係について言えば、後水尾院に対する徳川幕府の仕打ちは惨かったようで、それについては白州正子『かくれ里』(「山村の円照寺」、pp.200-213)に記述がある*3亀井静香がそういうことを考えているということはまさかないだろう。それよりも、皇族がパスポートも持てず、プライヴェートで自由に海外旅行もできないという現在の処遇の方が江戸幕府の仕打ちにより近い。
かくれ里 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

かくれ里 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

征夷大将軍」制度については、高橋富雄『征夷大将軍』をマークしておく。
征夷大将軍―もう一つの国家主権 (中公新書)

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