火葬へ

東京新聞』の記事;


両陛下葬儀 火葬に 国民生活、環境配慮の意向 

2013年11月15日 朝刊


 宮内庁の風岡典之(かざおかのりゆき)長官は十四日、天皇、皇后両陛下の葬送や陵(りょう)の在り方の検討結果を公表した。葬儀は、約三百六十年前の江戸時代初期から続いた土葬を今後は火葬にするのがふさわしいと結論づけた。陵は、独立していた天皇陵、皇后陵が隣同士となる一体的な墓所になるように改める。国民生活や環境に配慮する両陛下の意向を反映したという。

 葬儀や陵の見直しは両陛下の示された意向を受け、昨年四月から宮内庁が本格的に検討。「大喪(たいそう)の礼」など国の行事は切り離し、憲法に定められた象徴天皇と、皇后や皇太后にふさわしい葬送の在り方を、皇室の伝統を考慮しながら模索していた。

 宮内庁によると、皇太子さまや秋篠宮さまも検討の内容を尊重しており、今回の見直しが将来も葬送の基準になる。

 火葬は両陛下の希望でもある。皇室では土葬も火葬も行われてきた歴史があり、すでに一般に行われている火葬が伝統に反することにはならないと判断した。火葬場は、大正天皇と貞明(ていめい)皇后、昭和天皇と香淳(こうじゅん)皇后が眠る武蔵陵墓地(東京都八王子市)に専用の施設をその都度設ける。使用が終われば解体し、資材や炉は保管する。

 一年間続く一連の儀式に、火葬と、それに伴う「丁重かつ比較的小規模な葬送儀礼」を追加。火葬後の遺骨は皇居に戻り、今回の検討で「奉安宮(ほうあんきゅう)」と名付けた宮殿内の御殿に安置される。

 皇室で行う葬儀の「斂葬(れんそう)の儀」のうち、「葬場殿(そうじょうでん)の儀」をどこで行うかは決めず、国民生活への影響や環境への配慮などの条件を挙げるのにとどめた。

 陵は、武蔵陵墓地の敷地に余裕がなくなっていることから規模を縮小する。両陛下の陵は大正天皇陵の西側を予定地と決定。自然の地形を生かすことを前提に「兆域(ちょういき)」と呼ばれる中心的な区域として計約三千五百平方メートルを確保した。昭和天皇香淳皇后の兆域の八割程度の広さで、今後の陵もこの規模とすると想定している。

 天皇陵と皇后陵は従来、隣接していても山林などで隔てられていたが、両陛下の陵は同じ敷地内に一体的に並べて配置する。当初検討されていた天皇陵と皇后陵を一つにする合葬(がっそう)は見送られた。
◆「極力、影響少なく」

 天皇陛下は葬送の見直しと合わせて宮内庁が公表した「お気持ち」の文書で、陵や葬送は「極力国民生活への影響の少ないものとすることが望ましいのではないか」との考えを明らかにされている。

 「葬場殿の儀」の場所を今後決める際も、施設を長期間占用しないか、葬場の設営で多くの樹木を伐採しないか−など、国民生活や環境への影響に配慮し、皇太子さまや秋篠宮さまの意見も踏まえて選ぶよう要望。最近の急激な気象の変化も気にかけ、暑さや寒さ、集中豪雨や竜巻などがあったとしても、出席者の安全が確保できる場所にしてほしい、と考えているという。

 「お気持ち」には両陛下のお互いへの思いやりもあふれている。陵の検討では、天皇陛下が前例のある皇后さまとの合葬も「視野に入れてはどうか」と提案。皇后さまは感謝しながらも「それはあまりに畏れ多く」と、遠慮する気持ちを示したという。

 同じ陵に入ることになれば、皇后さまご自身が先立った場合、陛下より先に陵が造られること、将来、天皇陵の前で行われる祭事は天皇のためのみに行われるのが望ましい−という考えからだった。

 その上で、皇后さまは皇后陵を従来ほど大きくせず、天皇陵のそばに造れないだろうかと側近に尋ねた。検討の結果、陵はこれまで通りの二つだが、同じ敷地に寄り添うように造る方針が決まった。 (水谷孝司)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013111502000131.html

See also


天皇・皇后両陛下の葬儀、17世紀以来の火葬に 宮内庁発表、陵は寄り添う形」http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG14028_U3A111C1MM8000/
吉川美津子「天皇陛下の意向「葬儀は簡素に」「火葬を希望」」http://www.e-sogi.com/alacarte/vol027.html


宮内庁天皇葬制改革を検討し始めてすぐの昨年5月に『朝日』は天皇の「火葬」についての記事を出している;

天皇の火葬、中世は一般的 葬法、時代の価値観反映か



 宮内庁天皇、皇后両陛下逝去の際、皇室の近世以来の伝統である土葬ではなく、火葬を検討していることを明らかにした。日本人はどのように火葬や土葬とつきあってきたのか。

■納骨信仰で貴族も 儒教の武士は土葬

 日本列島で火葬が行われるようになったのは、かなり古い。縄文時代には各地の遺跡から火葬された人骨が見つかっているし、古墳時代にも、火葬された例はある。

 だが、普及したのは8世紀以降だ。女帝・持統天皇が703年に天皇として初めて火葬されたのがきっかけといわれる。持統天皇は、自らの葬儀に際して、その簡略化(薄葬)を強く望んだため、火葬はその一環で行われたようだ。

 続く文武天皇元明天皇元正天皇の3人も荼毘(だび)に付され、それまで土葬だった天皇の火葬が定着した。宮内庁によれば、124代(2人は2回即位)の天皇のうち、火葬になったのは約3分の1。

 やがて上級貴族や役人も、ならって火葬を行うようになった。

 元興寺文化財研究所研究部長の狭川真一さん(仏教考古学)は、火葬が盛んになった理由について、「中世以降については、高野山など各地の有名な寺に自らの遺骨を分けて納骨し、極楽往生を願った貴族たちの納骨信仰と関連がある」と推測する。「火葬はすぐに骨になるので、分骨には向いていたのでしょう」

 しかし、近世になると、上流の武家層などの間では土葬が一般化し始める。「武士の間に儒教思想が浸透したことが大きい」と立正大名誉教授の坂詰秀一さん(仏教考古学)。儒教では、火葬によって肉親の遺体を傷つけることを大きな罪と考えるからだ。

 もっとも、庶民は古代から近世の終わりに至るまで、一貫して土葬だった。理由は「火葬は燃料代が余分にかかるから」(坂詰さん)。火葬が増えたのは埋葬地の確保が難しくなった明治以降のことで、実際、火葬の普及率は1896(明治29)年で約27%、1955(昭和30)年でも54%に過ぎなかった。

 一方、天皇の葬法に関しては、古代以来、火葬と土葬が混在する状態が続いていた。理由としては、故人の遺志などが考えられるが、江戸時代前期以降は、原則、土葬となる。ただ、実際には火葬の形式も残され、幕末の孝明天皇以後、土葬に統一された。

 天皇が火葬に戻るとすると、歴史的にはどのように位置づけられるのだろう。

天皇陵は江戸時代には仏教的な観念から他の墓と同様、ケガレの場とされたが、明治維新と共に神道イデオロギーを確立させる過程で価値観が逆転し、神社同様、聖なるものになった」と指摘するのは明治学院大教授の原武史さん(日本政治思想史)だ。

 「巨大な陵への土葬は、近世以降では明治になって意識的に取り入れられた。それを覆す今回の火葬表明は、敗戦によっても変わることがなかった天皇制の根幹部分に関わる改革へつながっていく可能性がある」

 また、国立歴史民俗博物館名誉教授の新谷尚紀(たかのり)さん(民俗学)は「天皇の埋葬のあり方は、歴史の節目ごとに何度も大きく変わってきた。国家神道確立の過程で規定された明治期以来の形が、ここで終わっても不思議はない」と話す。

 「陛下が希望されているという皇后陛下との合葬は、家よりも家族や夫婦を大切にする意思を感じさせる。現代の天皇にふさわしい埋葬の形と言えるかもしれません」(宮代栄一)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201205090243.html

土葬が復活したのは後光明天皇のときからだが*1、これは江戸時代における日本社会の儒家化(中国化)の一環だったわけだ。後光明天皇の土葬を進言したのは御所出入りの「奥八兵衛」という「魚屋」であったという*2Wikipediaに曰く、

八兵衛は代々の家業である魚商にたずさわり、鮮魚を調進するため皇居にも出入りしていた。

承応3年(1654年)、後光明天皇崩御に際して、先例により葬儀は仏教の式とし、玉体(天皇の身体)は荼毘(火葬)に付すことと朝議で決した。これを聞いた八兵衛は、火葬が仏教に基づく葬制であるところ、かねて天皇儒学に専心して「火葬は不仁である」と嘆き、仏教を信仰していなかったことから、火葬することは天皇の意思に沿わないと考えた。そこで、八兵衛は、仙院(上皇の御所)から関白の屋敷、後宮、官吏の役宅まで訪ね回り、数日にわたって号泣して火葬の中止を建言懇請した。ついに朝議は八兵衛の建言を採納し、以後、持統天皇から千年近くにわたって続いた天皇の火葬を停止した。

この功績により、1879年(明治12年)には子孫の奥八郎兵衛が追賞を受け、さらに、1907年(明治40年)5月には八兵衛に正五位が贈られた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%85%AB%E5%85%B5%E8%A1%9B *3


ところで、上でちょこっと参照した「天皇の火葬」というテクストなのだが*4

しかし、西暦1654年に崩御した後光明天皇の葬儀の時に、火葬が排せられて土葬に戻った。ところが不思議なことに、遺体をそのまま土葬するのではなく、いったん火葬したうえで土葬するという手の込んだ方法をとったものらしい。したがって、一定期間遺体を保存して、殯の儀を執り行うという古来の伝統からは、多少外れていたようなのである。
という記述はよくわからないのだった。「いったん火葬したうえで土葬する」ってどういうこと?
火葬が薪という稀少資源を使うこと*5。これはチベットにおいて火葬が一部の高僧などに限定されていたこととも符合する*6。また火葬の一般化は石油文明ということと関係がありそうな気がする。火葬場に石油(重油)が導入されることによってはじめて遺体を効率的に短時間で焼き上げることが可能になったからだ。石油導入以前、例えば戦前の東京などでは、昼間に火葬することは悪臭のために禁止されていた筈。
天皇火葬ということが「天皇制の根幹部分に関わる改革へつながっていく可能性がある」かどうかはわからないが、大日本帝国憲法体制と日本国憲法体制とのコントラストが意識されていることはたしかだろう。
火葬については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080415/1208240803 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080819/1219169903 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090114/1231911646 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100810/1281411210 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130427/1367029615も。