司馬遼太郎会見記（瀧浪貞子） - Living, Loving, Thinking, Again

瀧浪貞子 *1「なつかしい一冊　司馬遼太郎著『空海の風景』（上・下巻）」『毎日新聞』2021年２月27日

この文章の中心は、著者が大学時代に司馬遼太郎 *2に直接会ったこと。

私が女子大学の史学科に在籍していた頃、一度だけ[司馬遼太郎]氏にお目にかかったことがある。半生記も前のこと、歴史学に関心が持てず、悶々とした日々を送っていた。学生運動が拡がったことから講義も途絶え、自分を見失い生活意欲そのものをなくしていた。そんな私を心配した中学時代の恩師が、氏のご自宅に連れていって下さったのである。
恩師と司馬氏の奥様、みどり夫人とは大学時代以来の親友であり、お住まいも隣どうしであった。氏が直木賞作家としてすでに高い評価を得ていたことは知っていた。雲の上の人であった。しかし不思議なことに、私に緊張感はなかった。同じ東大阪市民という親近感もあって、まったく失礼な話だが、知り合いのおじさんに会いに行くといった気分だったと記憶する。
今でも鮮明に覚えているのは、桂米朝さんのカセットを聴かせて下さったことである。落語家のなかでも大好きだという話から、落語論など、氏の話術と博識に圧倒されながらもカセットから聴こえる話に大笑いしたものである。カチカチに凝り固まった私を慮ってのお心遣いだった。歴史は考える学問であり論理的・体系的思考が必要である。事実だけを抽出するのではなく人間との関わりのなかで理解しなければ歴史ではない、などと優しく諭して下さったのは、ひとしきり笑ったあとだった。氏は空海の執筆準備にかかっておられたようで、千年も前の会ったこともない人物と対話するのは難しい、というより苦しい作業である、それでも空海が生きた時代の思想や環境、身辺から炙り出していくのは楽しく、なんとか空海を現出してみたいとも言われていた。しばらく経ってから送って下さった書名に「風景」とつけられた意味が理解できるようになったのは、ずっと後のことである。

*1:See eg. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E6%B5%AA%E8%B2%9E%E5%AD%90