担保の喪失?

楊駿驍「抽象的なものを「失う」こと/黒暗中国語④」https://note.com/yaoshunshyo/n/neeae42028e59


中国語の「失去 shīqù」という動詞は主に「抽象的なもの」を「失う」という意味で使われる。
「抽象的なもの」を失うということは具体的な物(者)を失うこととは同じではない。


そもそも、理性とは何か、愛とは何か、希望とは何か、自信とは何かについては(簡単に)定義することはできない。それらは文脈によって完全に変わってしまうこともあるような、流動的で不安定なものである。理性的だとされていた行為が実は単に共感の能力が欠如していたからだったり、愛だと思っていた感情がただの共依存だったり、自信を持っていたと思っていたがそれはむしろ自分自身に対する不安を隠すためのものだったり、希望をもたらすと思っていたが絶望の幕開けだったりすることは(私たちが思っている以上に)日常茶飯事である。

それを「失去(失った)」と言うまさにその行為自体によって、私たちは遡及的に(「後出しジャンケン」的に)それは確かに存在していたという幻想を作り出している場合が意外と多いかもしれない。

これらは「失った」後でその存在に気づく。さらに言えば、「失った」後で「遡及的に」そのようなものとして構成される。
ここでいう「抽象的なもの」というのは意味或いは価値と言い換えることができるかも知れない。Meaning is moaning! 英語における意味(meaning)は語源として、to moan(喪失や不在に対して呻くこと)に遡ることができるのだった*1

新型コロナの流行で私たちはしばしば「日常を失った」という言い方をする。しかし、その日常とはそもそもあったのか、それがどんなものだったのか、本当に一貫していて、私たちの生活を支えていたようなものだったのかを改めて問われると、簡単には答えられないのではないだろうか。むしろ、そのような問いを掘り下げて考えていくと、私たちが取り戻したいと思っている日常は実はとても退屈なものだったり、おぞましかったり、私たちを窒息させるようなものだったりすることもあるのではないだろうか。

言い換えれば、今の「緊急事態」はむしろ私たちの日常自体の影に潜んで、それを支えていた「何か」を明るみに出しただけだったのではないかと問うこともできるのではないか。

「支えていた」というということで思い出したのだが、価値がもっともらいいものとして存立するためには、物的な担保が必要なのだった。担保となるのは銀行預金や不動産ばかりではない。愛というと抽象的で取り留めがないかも知れない。しかし、性的な快楽はわかりやすい。この意味で、セクシュアリティは愛の物的担保だと言えるかも知れない。また、そもそも価値とか意味とかがこの世界に現れ続けるためには物的な媒体が必要である。例えば美という価値は作品という媒体を通じてこの世界に現れ続ける。そういえば、仏蘭西語でsupportはmediumと同じ意味を持つこともあるのだった。
さて、数十年前に、作田啓一先生の『価値の社会学*2で、「価値」というのはコストによってしか規定され得ないということを読んだときは、凄ぇ! と思った。まあ、考えてみれば、当たり前のことなのだけど。
価値の社会学 (1972年)

価値の社会学 (1972年)