宮代栄一*1「上杉謙信は「義の武将」にあらず? 近年の研究で見えた実像は」https://book.asahi.com/article/13798641
八切止夫という昭和のトンデモの巨匠によって女にされたこともあるけれど*2、一般には信心深く義を重んじた武将とされている上杉謙信の脱神話化が進んでいるのだという。
例えば、
石渡洋平『シリーズ 実像に迫る 上杉謙信』戎光祥出版、2017
福原圭一、前嶋敏編『上杉謙信』高志書院、2017
今福匡『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』星海社新書、2018
山田邦明『上杉謙信』吉川弘文館、2020
萩原大輔『謙信襲来 越中・能登・加賀の戦国』能登印刷出版部、2020
川中島での謙信と武田信玄の一騎打ちはフィクション。信玄に塩を送ったという美談も同時代の史料による裏付けは取れないという。
謙信像の構築を巡っては、「義の武将としての謙信像は江戸時代に流行した武田信玄ゆかりの甲州流軍学に対抗して、越後流軍学を標榜した軍学者や米沢藩上杉家などが美化・強調したものらしい」という。「越後流軍学」というのは知らなかった。ただ、謙信以降の近世上杉家は、上杉景勝の代で領地を120万石まで増やしたものの、関ヶ原で西軍が負けたために、一気に30万石まで減らされ、さらに景勝の孫の上杉綱勝が跡継ぎがいないまま急死したために、改易寸前となるが、急遽吉良義央の息子を養子に迎えることで、何とか家(藩)は存続できたものの、領地は半分削られて15万石になってしまう。このように、近世の上杉家の歴史は衰退の歴史だった。このような中で、藩としてのアイデンティティを維持していくためには、その象徴としての藩祖・謙信信仰というのは重要だったのだろう。謙信以前の中世上杉家というか、関東管領として鎌倉を拠点としていた上杉と謙信以降の近世上杉家とは、はっきり言って、あまり連続性を感じられないのだが、血統として言えば、謙信以降は「長尾」なのだった*3。
ところで、関西の人は知らないけれど、少なくとも関東の人間には〈川中島的世界観〉というか、宿命のライヴァルとしての上杉と武田という観念が染みついている。この二高対立の起源もやはり「越後流軍学」なのだろうか。