「エセ歴史本」を回避するために

齊藤颯人「『日本国紀』だけじゃない! 書店にはびこる「エセ歴史本」に惑わされないために」https://hbol.jp/222798


八切止夫*1への言及にかなりスペースが割かれているので、一瞬吃驚してしまった。私が10代だった1970年代、八切は既にメジャーな出版社から相手にされなくなって、自らが作った出版社から著書を上梓するようになっており、普通の本屋で買えるような作家ではなかった。若いのに、八切を読んでいるなんて凄い! ただ、後から知ったのだが、八切のテクストの一部が『八切止夫作品集』としてウェブで読めるようになっているのだった*2
それはともかくとして、


さて、「エセ歴史本」の問題点が「内容がデタラメであること」なのは分かりやすいだろう。しかし、「エセ歴史本」がもつ非常にやっかいな部分は「一見すると内容が斬新で、かつ本として面白い」という点だと考える。

 具体例を挙げよう。昭和の時代に歴史小説家として活躍した八切止夫という人物がいる。彼は小説家でありながら一方で歴史家としても活動しており、「八切史観」と呼ばれる独自の歴史観を展開していた。

 その中で、まさに本記事で取り上げているような「エセ歴史本」の分かりやすい著作として、彼の書く『八切意外史』というシリーズものがある。彼はその中で「上杉謙信は女性だった」、「織田信長を殺したのは明智光秀ではない」など、これまでの通説を大きく覆すような主張を繰り返している。まさに「意外史」というべき内容だ。

 加えて、八切は内容がさも歴史研究の成果であるかのように論拠を提示している。例えば、「上杉謙信女性説」に関して、彼は「スペインで発見された文書に『上杉景勝の叔母(謙信のこと)』という文字を見つけた」「謙信の死因は大虫であり、これは月経の隠語だった」「当時民衆の間で流行していた詩に、謙信が女性であったことを裏付ける歌詞がある」などの点を論拠とした。

 しかしながら、これらの論拠は「本物」の歴史家によってすべて否定されている。そもそも、上杉謙信を女性だと主張するなら、それを証明する有力かつ客観的な証拠がなければならない。が、八切の主張を支える論拠は客観的に証明することが困難なものばかりであり、当然ながら昨今の歴史学会では相手にされていない。

 ところが、「あの上杉謙信が女性」というセンセーショナルな響きと、小説家らしい説得力と起伏のある文章で彼の説は広まっていったという歴史がある。もし、彼の発想に意外性がなく、かつ文章が全く面白くなければ、これほど有名になることはなかっただろう。

さて、如何にして、トンデモ本、「エセ歴史本」を回避するのか。先ずは「強いメッセージ」を避けること;

八切と現代の「エセ歴史本」に共通するのは、歴史の専門家ではない一般の人たちが惹かれるような「強いメッセージ」が込められていることだ。例えば、八切は「意外」という言葉を使い、「あなたたちが知っていることは間違っているんですよ」と暗に揺さぶりをかけている。すると、私たちはどうしても「えっ、一体どういうことなんだろう」と気になり、本を手に取ってしまう。そうなれば最後、彼の文才に魅了されてすっかり信じ込んでしまうという構図だ。

 この手法は、現代でも非常によく用いられている。例えば「教科書は教えてくれない〇〇」や「誰も知らない〇〇」、「ウソだらけの〇〇」といったタイトルをつけ、読者を引き込むのは常套手段だ。

 つまり、私たちが歴史本を手に取る際には「不必要に強いことばを使っていないか」ということを一種の判断基準にしてもいいかもしれない。また、誠実な歴史研究の成果として出てくる説というのは得てして地味なものなので、上記の「上杉謙信女性説」のように「内容があまりに斬新すぎやしないか」という視点を持つのも有効だ。もちろん、これらの条件に当てはまっても信頼できる歴史本があってもおかしくはない。

さらに、「「先行研究などをしっかり踏まえているか」「参考資料のリストや註などは充実しているか」「信頼できる版元か(大手だから良いというわけではない)」といったあたりに気を配っていくと、エセ歴史本を手に取ることはなくなるかもしれない」ともいう。ただ、「先行研究」の扱われ方や文献目録や註の仕方を吟味するには、(歴史学に限らないが)文系の学問の訓練を経る必要があると思う。
本文でも名前が挙げられている呉座勇一氏へのインタヴュー記事を再度マークしておく;


桂星子「絶対の正解求める危うさ 歴史学者・呉座勇一氏」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44916500X10C19A5BC8000/ *3