張り合う相手

根本はるみ「「人からみる」大名家」『本郷』(吉川弘文館)166、pp.5-7、2023*1


曰く、


(前略)大藩・雄藩と思われる萩藩毛利家も官位という点から見れば、金沢藩前田家はもちろんのころ、仙台藩伊達家や鹿児島藩島津家には及ばなかった。むしろ、萩藩毛利家は近世初期の逸話から米沢藩上杉家や熊本藩細川家をライバルとして常に意識し、彼らの官位昇進には敏感に反応した。(略)八代藩主治親(世子時代は治元)は家督相続前に侍従に昇進した。これ自体萩藩毛利家にとっても慶事ではあるが、治親の正室節姫の実家である田安家の協力を得てまで治親の昇進を急いだ背景には、他大名家に対する強い対抗意識が存在していた。この時、他大名家の世子の昇進の風聞を耳にした萩藩は急ぎ田安家を通じて大奥へ働きかけを行ったが、治親の昇進に対する悲観的な見通しを示された重就・治親父子の様子について、史料では父子ともに「御鬱気」という状態であったとしている。より高い官位や家格を求めて他者と必死に競い合い、その結果に一喜一憂する姿は滑稽にも見えるかもしれない。しかし、常に他者を意識しなくてはならない社会の中では容易に競争から抜け出すことはままならなかったと考えれば、同じように社会の中で他者と生きる私たちも共感できる部分があるのではないだろうか。
こうした事情があったからこそ、大名家は内願に熱中していくことになるのだが、人を通じた内願自体ある意味「家」が継承する一種の技術でもあるから、実は上手い下手がある。六代藩主宗広の代には官位の昇進を期待し、老中から求められるままに掛け軸や茶器などを「貸す」という名目で渡しているのだが、結局貸した物は返ってこず、官位の昇進も実現しなかった。当時の萩藩毛利家は分家出身の藩主に代わり、有力者とのつながりもなかったから当然といえば当然のことであるが、ただ単純に賄賂を渡すだけでは不十分ということであろう。実際、田安宗武の娘である節姫(邦媛院)を世子の正室に迎えた途端、藩主も世子も順調に昇進したことから見ても、近世における人間関係の持つ影響力の大きさは推して知るべしというところだろう。(pp.5-6)
石高でいうと、萩藩は実際は100万石に達していたとも言われているけど、あくまでも亜表高は39万石しかなかったので、加賀百万石や70万石の薩摩藩、60万石の仙台藩と同格というわけにはいかなかった。熊本藩は54万石。米沢藩は最初は30万石(後に15万石に減らされる)。
さて、「官位」というのは正一位を頂点としたハイアラーキーのことで、ここで言及されているような「侍従」などは官職という筈。藩主の「官位」でいえば、従三位以上の公卿になることができる大名は、徳川御三家と加賀の前田家だけだったので、これは別格。萩の毛利、仙台の伊達、薩摩の島津、熊本の細川、米沢の上杉の官位をWikipediaで見ていったのだけど、何処が上で何処が下なのか、ちょっと判断できかねるのだった。島津の場合、最高は正四位上。ただ、10代の島津斉興は(四位でも公卿になれる)参議になっている。また、斉興と8代の島津重豪は隠居後に従三位を与えられている。熊本の細川の場合は基本的に従四位下。11代の細川韶邦は正四位だが、正四位に昇進したのは隠居後であり、それまでは従四位上。萩の毛利家は基本的には従四位下。ただ、11代の毛利斉元従四位上になっている。仙台の伊達は基本的に従四位下。なかには正四位下従四位上になった藩主もいる。また、9代の伊達周宗は生後1歳で家督を継ぎ17歳で夭折したために無位無官。米沢の上杉家は基本的に従四位下。ただ、12代の上杉斉憲従四位上