「伊良子清白『孔雀船』を読む」https://kandliterature.hateblo.jp/entry/2020/07/15/173415
伊良子清白という詩人については殆ど知らなかった;
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%89%AF%E5%AD%90%E6%B8%85%E7%99%BD
津市生涯学習課「伊良子清白」http://tokowaka-tsucity.jp/www/contents/1001000011197/index.html *1
鳥羽商工会議所「伊良子清白【いらこ・せいはく】」http://www.toba.or.jp/zukan/writer/writer-02/
また、詩集『孔雀船』は青空文庫で読める*2。
さて、上掲のエントリーに曰く、
和歌でも俳句でも漢詩でもない「詩」というのは近代・現代の日本語の環境にどのような〈文〉として位置を占めていたのか(占めているのか)? ところで、「詩」と「定型」を巡っては幾度か無駄口を叩いていたのだった*3。
ジョージ・オーウェル学会の会長さんと飲んだときに、伊良子清白はいいよ、あれは本当にいい、と言われ、読んでみたらすぐにその理由がわかった。たとえば西洋の詩は、形式に支配された伝統の上に詩が築きあげられてきた背景があり、それはそれでとても美しい。手の届かないものを崇高の美として拝してきた西洋の美学は、ひとつの芸術の形式として詩を定義づけてきた。それに対し日本の詩は、心のすぐそばにある印象が美しく連なり、少しずつ日常の外へ読み手を連れ去る予感がある。ふと気がつくと私たちは、自分のまわりにぼんやりとしたうすくきれいな皮膜をまとい、ありふれた日常にいつもとはちがう澄んだ印象を抱く。詩の教科書なる文献が西洋には掃いて捨てるほどあるが、日本の詩の教科書はつくろうと思ってもつくれない。形式化しようにも、そもそも日本の詩には形式というものがない。見えてくるのはあくまでヨーロッパの詩を下敷きとした形式の敷衍でしかない。しかしそれをもって日本の詩を位相の低いもののように見るのは愚の骨頂である。それは伊良子清白の「漂泊」を読んでみればよくわかる。
*1:伊良子は小学校、中学(旧制)時代、津に居住していた。
*2:https://www.aozora.gr.jp/cards/000430/files/49851_53195.html
*3:Eg. https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090706/1246906032 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090707/1246985332 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091129/1259460953 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091130/1259551363 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100221/1266732813 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110805/1312518352 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180507/1525628086