http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090706/1246906032に対して、
というコメントをいただく。
synonymous 歌詞を書くようになって、いろいろ考えることはあった。現状、詩と歌詞は似て非なるものではあるが、教育の一環としては詩よりも歌詞を書かせるほうがよいと思う。 2009/07/07
http://b.hatena.ne.jp/synonymous/20090707#bookmark-14467567
西条八十などの〈詩人〉が作詞家に転身したことについて、富岡多恵子さん(『さまざまなうた』)が〈詩人〉の〈定型〉への憧れがあったのではないかと、たしか語っていた筈。たしかに、「歌詞」は現代の〈定型詩〉といえるかも。日本語ではないが、英語の歌詞ではちゃんと脚韻も踏んでいるし*1。歌詞が〈定型詩〉であるのはそれだけではなく、思った通りに自由にずるずる書くのではなく、常に或るメロディやリズムに合わせなければならないということだろう。しかし、歌詞が狭義の〈詩〉と異なるのはここにおいてであろう。歌詞はあくまでも音楽の一部であり、言葉として自立することはできない*2。丘沢静也氏は、現代詩(氏は独逸語圏について言及していたと思うが)が駄目になったのは〈歌う〉ことを切り捨てて観念に奔ったからだと述べていた(『マンネリズムのすすめ』)。そういえば、〈定型〉というのは詩と〈歌う〉ことの関係、詩が歌詞であったことの名残であるとも言える。和歌といいながら、和歌が歌謡から切り離されて、歌うものから詠むものになって、相当の時間が経つわけだが、それでも五七五七七という形式はそれ自体でリズムを刻んでしまう。その意味で、「詩と歌詞は似て非なるもの」どころか、歌詞こそが詩の本道であるかも知れない。但し、それが「詩的言語」であるかどうかはまた別の話。
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- 作者: 丘沢静也
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*1:日本語で脚韻を踏む習慣がないのは、そのシンタックスのせいだろう。日本語とシンタックスが似ている韓国語ではどうなっているのかは知らない。そのため、日本語のラップで韻を踏もうとしても、その韻は強引でとってつけたような感じになり、それは、日本語のラップが理屈やいきがりによって勝負する傾向に拍車をかけているような気がする。
*2:歌詞については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070314/1173847536も参照のこと。