「中学受験から「詩」がほぼ消えかけている」?

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20090705#1246727705


ほんとうに「詩人」というのは例えば小説家よりも「「著作権」についてとくにやかましく、つまり入試問題に使用される際に著作権を主張するので、受験校としてはうぜえから「詩」を出題することを避けることとなる」のか。ただ、次のことは言えると思う。「詩」のテクストの場合、散文と比べて、「入試問題」を作るときの手口、例えば一部を伏せ字にして、当て嵌まる言葉を書きなさいという問題を出す、或いは漢字の部分を平仮名にして再度漢字に直させるといったようなこと、そのようなテクストへの暴力に対して、よりヴァルネラブルである。
さて、曰く、


日本において「詩人」は尊敬されているだろうか? というより、尊敬に値するだろうか? 日本語表現は詩人によるよりもむしろ翻訳によって表現が豊かになったのがこの140年間ではないかと思う。1960年代くらいまで、情緒を基調とした文学系統の言語と、理性を基調とし翻訳語によって切磋琢磨した他の学問の系統の言語が日本では断絶していたように思うが、その後、後者が前者に浸透し、日本語をずいぶん鍛えたように私は思う。それと比べ、「詩」の日本語への貢献度はどの程度のものだろうか、と私は疑う。
さて、どうかな? 先ず「文学系統の言語」というのは「情緒を基調とした」ものなのかどうか。「文学系統の言語」というのは、〈客観的〉な事物であれ〈主観的〉な感覚や印章印象であれ、先ず叙述(描写)するものなのではないか*1。それに対して、「学問の系統の言語」、つまりテクニカル・タームは説明或いは解釈するための言葉。定式化するための言葉(language to formalize)とも言えるか。また、「翻訳」と「詩」は対立するものではない。寧ろ、「翻訳」においてこそ「詩」が見出されるともいえる(これについては後述)。
丸谷才一先生(『桜もさよならも日本語』)は国語教育において子どもに「詩」を作らせるのはやめとけとは言ったが、「詩」そのものを教えるなとは言ってなかったと思う。ただ、丸谷先生が「詩」を子どもに作らせるなと言った根拠は、「詩」を教えることにも関わってくると思う。かつて「詩」は、ソネットにせよ、五言絶句にせよ、短歌や俳句にせよ、〈定型〉を有していた。つまり、「詩」とそれ以外の言葉の区別は聴いただけで、見ただけで可能だったわけだ。また、例えば五七五七七とか季語を使うといった形式を守れば、形式を習得すれば、誰でもが「詩」らしきものを作れた。しかし、現代詩はそのような〈定型〉を離脱したところにおいて存立している。これはどういうことかといえば、「詩」とそれ以外の言葉の区別は聴いただけでは、見ただけでは可能ではない。どんな言葉でも「詩」になりうるし、どんな言葉でも「詩」になるとは限らない。つまり、ポエジー(詩が詩であること)は自明ではなくなった。何でもあり・何にもなしの状況に立ち至った「詩」を国語教師は教えられるのかな。
桜もさよならも日本語 (新潮文庫)

桜もさよならも日本語 (新潮文庫)

このような状況において、「詩」は「詩」という実体を離れて、(言語の様態や機能としての)「詩的言語」*2として語られなければならない。或いは経験として。それにいち早く気づいたのが、露西亜フォルマリストたちであり、ローマン・ヤコブソンらのプラーグ学派の言語学者たちだったということになる*3。〈詩的経験〉とは言語のシニフィアン(記号)とシニフィエ(メッセージ)との自明で透明な関係が失効し、言語が自らの主張や意志を伝える道具としては機能しなくなる経験、それとともに記号(言語そのもの)が物として突出してくる経験であり、「詩的言語」とはそのような経験を生起させるような言語の様態や機能であるといえるだろう。一言でいえば、シニフィエではなくシニフィアンが突出する事態。さて、「詩」は翻訳不可能であると屡々言われる。〈定型詩〉の場合、翻訳によって〈定型〉が破壊されてしまうということがある。「古池や蛙飛び込む水の音」をI heard sounds of frogs jumping into the old pondとしても、それは翻訳ではなくパラフレーズにすぎない。さらに、散文の場合、ねこでもでもcatでもchatでも、まあ意味が同じなのだからどれでもOKということがあって、それを前提として翻訳という作業が可能になっているのだけれど、「詩」においてはシニフィアンこそ命なのだから、これらはどれも置き換え不可能な別のシニフィアンであるという事実に翻訳者は直面してしまうことになる。「詩」の翻訳は「詩」の破壊である。しかし、(「詩」のみならず)一般的な意味における翻訳の経験こそ〈詩的経験〉だとも言える。誰でも、翻訳をするとき、言語のシニフィアン(記号)とシニフィエ(メッセージ)との自明で透明な関係が失効する経験をする。何しろ、翻訳というのは、(例えば)日本語の領土から越境し、(例えば)英語とか中国語の領土に不法入国し、迷子になりつつも何とか再度(例えば)日本語に戻ってくるという経験である。翻訳するとき誰でもが「詩人」となる*4。それだけでなく、未知のもの、奇妙(strange)なものに遭遇した時、言葉をあきらめてしまい沈黙に沈んでしまうのでなければ、誰もが「詩人」にならざるをえない*5
このように、「詩」は一方ではよくわからないものになったものの、実はたんなる美辞麗句ではなく、私たちの言葉を介した世界との関係それ自体に関わるものとして理解することが可能になったといえる。現在、学校で「詩」がどのように(how)教えられているのかは知らぬ*6。勿論、「詩」を愉しむためには字が読めれば充分で、理屈は要らないともいえるだろう。しかし、「詩」を語るためには、さらには「詩」を教えるためには、修辞学やら構造言語学やら認知科学といった理論的な道具立てが要請されるわけで、国語教育の方でそのような理論を小中学生が拒絶反応を示さない仕方で語る方法を開発していないとしたら、「詩人」だけ責めても仕方ないのではないかとも思うのだ。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081209/1228822602

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060207/1139336690 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060816/1155708186 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070503/1178193559 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080105/1199511204 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081216/1229430768

*3:ここでは、取り敢えず、ヤコブソンの『一般言語学』をマークしておく。

一般言語学

一般言語学

*4:「詩」と翻訳の関係については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050703http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050721を参照されたい。また、「詩」と「翻訳」と「統合失調症」についての中井久夫先生の「精神科医という職業は一種の翻訳者、それも少なくとも統合失調症の場合には、散文よりも詩の翻訳者に近いところがありそうに思うことが時々ある」という言(See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080109/1199847126 )。ところで、「詩人」には優れた翻訳家である人が多いような気がする。例えば、田村隆一吉田加南子

*5:そうすると、プロの「詩人」の意味は?

*6:でも、向山洋一がやっていることはつまらなそうだ。See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090610/1244633990