「外国語」効果

青山南*1「違う自分になる――外国語がくれるもの」『パブリッシャーズ・レビュー』84、2020


少し抜書き。


外国語を初めて自分でつかったとき、初めてしゃべったとき、日本人しかいない教室のなかではなく、外国人を相手につかったときにはとくに、だれしもきっと、少なからず興奮するはずだ。ジャック・ケルアックの小説『オン・ザ・ロード*2のなかに、メキシコで車に入っていったアメリカ人の女好きなやんちゃな男が、どこに行けば女に会えるか、と土地のメキシコ人に訊くシーンがある。
「『どこだ? ア・ドンデ?』やつはスペイン語で叫んだ。『すごいぞ、サル、おれ、スペイン語をしゃべってる』」
友人のサルにむかってそういうのだが、がいこくじんを相手に外国語を発するときの興奮が伝わってくる発言である。
なぜ、興奮するのか?
それは、外国語を発する瞬間、いつもの自分とは違う人間になっているからだ。言語にはその土地ならでは文化が反映されているのだから、その言語を発するということはその文化のなかで生きる人間に、一瞬であれ、なるということで、したがって、とつぜん出現した見知らぬ自分の姿に興奮する。「おれ、スペイン語をしゃべってる」という発言は、「おれ、違う人間になってる」とほとんど同義である。外国語をしゃべってるおれって優秀、と自賛しての興奮ではない。違う人間になっていることを発見して、おどろいて興奮している。一言語の束縛から一瞬自由になって、違う言語の人間になったことの興奮である。
路上 (河出文庫 505A)

路上 (河出文庫 505A)

ところで、柄谷行人氏が外国語の学習はそれ自体現象学的還元だと言っていたらしいのだけど*3、いまだにその出典は不明のまま。