信太郎の家(続)

承前*1

鈴木伸子*2東池袋の住宅街に建つ「美しすぎる書斎」を探訪」https://toyokeizai.net/articles/-/328901


豊島区東池袋鈴木信太郎故居(鈴木信太郎記念館)。この記事の最大のウリは「書斎」内の360°パノラマ撮影だろうか。
さて、その「書斎」の意味を巡って;


信太郎にとってこの書斎は仕事部屋でもあり、友人たちと集うサロンでもあった。一方、家族にとっては「神聖な場所」であり、子どもたちは出入りを禁じられ、用があるときはノックをして「お入り」と言われるまで中に入ることはできなかったという。

1928年という、まだ一般の家には鉄筋コンクリート造が珍しい時代に、この書斎が建設されたのは、それ以前に、信太郎が二度にわたって大事な書物を火災によって失う苦い経験をしていたためであった。

1923(大正12)年の関東大震災では、東京帝大の図書館などが消失し、貴重な学術書が灰となった。その後、大正末に信太郎がフランスに私費留学した際には、パリの著名な古書店であるシャンピオン書店などから買い集めた約1000冊の貴重な書籍を船火事で失っている。フランスで心血を注いで買い集めた当時入手困難だった本をすべて失ったことで信太郎はノイローゼに陥ったという。

そうして、学者にとって何よりも大事な財産である本のためには、耐火構造の書斎・書庫が不可欠であると確信。直ちにその計画に着手し、1928年に書斎は竣工した。その甲斐あって、1945(昭和20)年4月の空襲で一帯が焼亡した際には、同じ敷地内にあった木造の住居は全焼してしまうが、この書斎だけは焼失を逃れている。

信太郎故居が東池袋にある由縁;

また、信太郎の実家は、祖父の代から神田佐久間町で米穀問屋を営むようにもなっていた。父は二代目で、家業を長女夫妻に委ね、1918(大正7)年、東京郊外であったこの東池袋に移った。

当時の住所は北豊島郡巣鴨村。現在は地下鉄丸ノ内線新大塚駅がすぐ近くだが、その頃は山手線の環状運転も始まっていない時代。市電(都電)の大塚辻町が最寄りの停留所だった。

この家に移った当時の信太郎はまだ東京帝国大学の学生だったが、翌年には深川木場の材木商の長女と結婚し、大学を卒業。2年後には東京帝国大学文学部の講師となっている。

「長男」の力。鈴木信太郎の長男は建築学者(建築計画学)の鈴木成文*3、次男は仏蘭西文学者の鈴木道彦*4。信太郎故居が保存されたのは成文の力によるところが大きかった;

信太郎が1970年に75歳で亡くなった後、この家には信太郎の妻・花子と成文夫婦が暮らした。その後、成文は建築の専門家らしく、受け継いだ家ができる限り元の姿に保つように住み続け、現在のような形でこの家が遺った。

成文は1989年に神戸芸術工科大学の教授になり、その3年後に妻を失ったが、不在がちになる自宅に教え子や留学生を下宿させ、2010年に82歳で亡くなるまで大切にこの家を保ち続けた。

生前からこの建物を後世に残すため、文化財登録を目指し、NPO法人による維持管理の準備を進めていた。そして弟の道彦は、その遺志を継いでこの土地と建物を豊島区に寄贈した。