要件としての「個人の自由」(吉本隆明)

日本語のゆくえ

日本語のゆくえ

  • 作者:吉本 隆明
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2008/01
  • メディア: 単行本

吉本隆明『日本語のゆくえ』から抜書き。
「詩であれ歌であれ、やっぱり個人の自由とか個人のモチーフがないかぎり、芸術性は生まれてこない」ということ(p.146)。


革マルの大将に黒田寛一*1という人がいました。その黒田寛一が亡くなったとき、やっぱり歌集を出しています。
ぼくはその歌集も読みましたが、そうすると、あの人らしいといえばあの人らしいのですが、要するに指導者としての感覚というか、天皇でいえば統治感覚、そういったものが感じられるわけです。指導者としての自分はどういう状態で何をすればいいんだということについての短歌をつくっている。たとえば、アメリカがイラクに戦争を仕掛けてどうしたとか、そういう短歌ばかりつくっている。
黒田寛一の歌はことごとくそうですね。アメリカがどこでどうしたとか、イランに対してこういう不当なことをしているとか、そういうことを時々刻々よんでいる。これでは芸術にならないわけです。
戦争中の高村光太郎『記録』という詩集がありますが、これも黒田寛一の短歌と同じです。各地の戦況に触れて、「日本の兵隊さんよ、がんばれ」というような詩で、これではとうてい芸術になりません。同じ時期、「沈思せよ、蒋先生」のように芸術としてもいい詩がありますけれども、『記録』という詩集に載っているものは戦況がどうだとかこうだとかいうものばかりで、とても芸術にはならないわけです。天皇でいえば統治感覚としての短歌、黒田寛一の短歌でいえば政治指導者としての延長線の歌、それとまったく変わらない詩ばかりです*2
その種の詩や短歌に何が欠けているかというと、人間の個性とか性格、あるいは個人としての自由さ、それから派生する孤独感や親近感、そういうものがすっぽりと抜け落ちている。黒田さんの短歌も高村光太郎『記録』も同質です。ロシアのマルクス主義の「政治と文学」でいえば、政治と文学の中間にあるべき個性とか自由さとか人間性、そうした重要なものが全部脱落してしまっている。だから芸術にならないのです。(pp.142-144)
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黒田寛一が死後歌集を出していたことは知らなかった。