「世俗のしもべとなるだろう」

『朝日』の記事*1


まどさん 新たな戦争詩 1942年の作品、中島利郎教授が発見(1/3ページ)

2010年11月6日14時17分


〈この戦争は石に囓(かじ)りついても勝たねばならないのだよ〉――詩人まど・みちおさんの「戦争詩」が新たに見つかった。妻に語りかける形で、聖戦完遂をめざす高揚感を静かに歌いあげている。戦時下に戦意高揚のための作品を書いた詩人の大半が戦後、口を閉ざしたまま世を去ったなかで、かつて全詩集で2編の戦争詩を公表して謝罪したまどさんは、この16日で101歳になる。

 この「妻」という詩は、1942年12月発行の月刊誌「台湾時報」に掲載された。当時33歳のまどさんは台北州庁に勤めながら、詩や童謡を書いていた。岐阜聖徳(しょうとく)学園大の中島利郎(としを)教授(台湾文学)が見つけ、同大外国語学部編『ポスト/コロニアルの諸相』(彩流社)で今春公表した。

 「妻」は、夫の力強い語りかけと、妻の静かな反応で始まる。


〈この戦争は

石に囓りついても勝たねばならないのだよといへば


お前は しづかに

私のかほを見まもり


ふかい信頼のまなざしで

うなづきかへす〉


 夫は、2人の間で日常かわされる〈でんぐ熱や 石鹸(せっけん)や 貯金や 姙娠(にんしん)や 近所附合(づきあい)やの話〉を打ち切れ、と言うつもりだったわけではない。その思いが妻に伝わり、詩はこう結ばれている。

〈お前はうなづきかへす―


夫婦よりも

夫婦よりも


更にたかい血のふるさとにおいての


ああ

味方を 味方を得たやうに〉


 「妻」とセットの散文「近感雑記」で、まどさんは〈この國(くに)をあげてのたたかひのさ中の日本の子供たちに、あたらしいうたを、……際限なく注いでやらねばならない〉と主張した。さらに、〈小供(こども)たちを放つておいて、なんの皇民化であらうか〉と、台湾の子供たちの皇民化推進にも言及した。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011060180.html

中島さんは語る。「この戦争詩を公表したのは、決してまどさんを批判するためではありません。文学者の戦争責任は戦後、議論が十分に尽くされたとは到底言えません。最後の戦中文学者ともいえるまどさんがご存命のうちに公表すれば、この問題を考え直す最後の機会になると考えたのです」

 92年に『まど・みちお全詩集』を出したとき、まどさんは「妻」と同時期の詩「朝」と「はるかな こだま」を収めた。後者の一節には〈今こそ君らも/君らの敵にむかえ/石にかじりついても/その敵をうちたおせ〉とある。

 まどさんはこの2編を「戦争協力詩」と呼び、こう謝罪した。〈私はもともと無知でぐうたらで、時流に流されやすい弱い人間です。……インチキぶりを世にさらすことで、私を恕(ゆる)して頂こうと考えました〉

 全詩集を編んだ編集者の伊藤英治さんは、9月に東京都内で開かれた日本児童文学学会の例会で講演し、中島さんの呼びかけに真摯(しんし)に答えた。

 「まどさんの業績に傷がつくから、中島さんの指摘は黙殺せよとの声もあった。私はむしろ感謝したい。責任は、全詩集ですべての戦争詩を集められなかった私にある。まどさんはもう巻きこみたくない。戦争詩がほかにないか、もう一度懸命に探す」。

 会場からは「散文は高ぶって書いたとは思えず重たい事実だ」という発言があった。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011060180_01.html

■「弱い人間」以前謝罪

 戦時中は三好達治高村光太郎ら大半の詩人が戦争詩を書いた。メディアの責任もある。

 萩原朔太郎は「南京陥落の日に」を、朝日新聞の記者から〈強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず〉(丸山薫あて書簡)一晩で書いた。〈こんな無良心の仕事をしたのは、僕としては生(うま)れて始めての事〉だったという。

 戦争詩を書いた詩人のほとんどは戦後、作品を闇に葬り、口を閉ざした。書いた経緯を明かした詩人は高村光太郎小野十三郎(とおざぶろう)、伊藤信吉らわずかで、まどさんほど強く自己批判した詩人はいない。鮎川信夫が半世紀前に指摘したように、問題は戦争詩を書いたか書かないかではなく、書いたことを隠したり弁解したりして反省がない点だった。

 私が別の取材で96歳のまどさんに会ったとき、突然こう語り始めたことがある。

 「私は臆病(おくびょう)な人間です。また戦争が起こったら、同じ失敗を繰り返す気がします。決して大きなことなど言えぬ、弱い人間なんだという目で、自分をいつも見ていたい」

 命の尊さを表現する自分がなぜ戦争詩を書いたのか。100歳の詩人はおそらく今も後悔しつづけている。まどさんが危惧(きぐ)するような時代がもし再び訪れたとき、どうするのか。68年ぶりに日の目を見た戦争詩「妻」は、詩人に限らず、すべての表現者に、重い問いを投げかけている。(白石明彦)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011060180_02.html

「詩人に限らず、すべての表現者に、重い問いを投げかけている」というけれど、その「表現者」に「朝日新聞の記者」は含まれているのかどうか。白石明彦は先ずこのことを自問すべきだろうと思った。
「戦争詩」を書いた詩人たちの問題は戦争に協力した、戦争を煽ったということよりも、〈詩〉を戦争という〈俗事〉の手段にしてしまったということにあるのだろう。まあプロパガンダといっても、古関裕而古賀政男などの戦争に協力した音楽家たちの仕事と同様に、「日本人の内輪的盛り上がりを煽ることには寄与した」のみで、〈大東亜戦争〉というプロジェクト全体には「クソの役にも立たなかっただろう」とはいえる*2。或いは、誤認という過ち。ハイデガーが陥った罠*3とも関係するかも知れないが、戦争という俗事に〈詩〉のエッセンスを見出してしまうこと。或いはその両方。まどみちお氏の自己批判*4のように、「臆病」や、或いはおっちょこちょいによる時勢への迎合ということに還元されるべきではないだろう。もしそこに還元可能であれば、これは高々〈道徳〉的なご教訓であり、〈文学〉的問題とはならないだろう。
詩人の戦争協力の問題は坪井秀人『戦争の記憶をさかのぼる』*5で論じられている。坪井氏は、戦争へのコミットメントだけではなく、戦後の〈反戦〉へのコミットメントにも、〈詩人〉が「自我とか個人的経験を抹殺することによって、大きな全体に自己を解消させ、自己決定の責任を安直に回避してしまっている」症候を見出している。『死の灰詩集』とそれに対する鮎川信夫の批判。
戦争の記憶をさかのぼる (ちくま新書(552))

戦争の記憶をさかのぼる (ちくま新書(552))

タイトルは、エドマンド・ウィルソン『アクセルの城』*6に引用されていたW.B.イェイツ「月の位相」の孫引き;

……世俗のしもべとなるだろう。そして仕えながら
不可能ではない仕事のうちから
なんでも最大の難事をえらんでいるうちに
肉体的にも精神的にも
奴僕の粗野な面をおびてくる。満月の前は
魂はおのれを求めたが、通過後は世俗を求める。(Cited in p.76)
アクセルの城 (ちくま学芸文庫)

アクセルの城 (ちくま学芸文庫)