「日常のハードコア」

松田青子*1庄野潤三『インド綿の服』 人生は明るい 世界への抵抗」『毎日新聞』2019年12月7日


庄野潤三*2『インド綿の服』を巡って。


ドリームズ・カム・トゥルーの「うれしい!たのしい!大好き!」という曲があり、この三つの気持ちだけで生きていけたらいいのにと私は遠い目になってしまったりもするのだが、庄野作品には、こういった明るい気持ちが何よりも強く息づいていて、そう、人生とはそもそもこうあるべきだった、と根源的な思いに立ち返らされるのだ。

今回特に、『インド綿の服』を読み直してみて、この作品集がいかに変わった、他にない作品であるか、思い知らされた。この作品群は、夫と子どもたちと足柄山に引っ越していった長女から届く手紙がそのまま登場し、そこから家族のある時期のエピソードが連想的に綴られていく。
面白いのは、それらの手紙が作者の書きたいことのフックとして使われているのではなく、その手紙の魅力をわれわれに最大限に伝えるために、作者が書いているところである。昨年出版された『庄野潤三の本 山の上の家』に収録されている長女の夏子さんの「私のお父さん」というエッセーには、「両親から離れたのは、今住んでいる足柄山の林の中の家に引っ越した時からです。親からの宅急便を受け取ったのも初めてでした。安心させる為に、私は宅急便のお礼や近況を手紙に書くようになりました。三人の男の子を引き連れて自然の中で暮らし始め、又一人男の子が生まれたので、報告する事は、いっぱいです。『ハイケイ、足柄山からこんにちは』で始める手紙には、家族の様子や庭に来ることりやヘビ、タヌキの事、夕食の献立まで何でも書きましたが、心配性の父なので、困った事はおもしろおかしく書きました。父は、そんな手紙を喜び、小説の中にそのまま入れました」とある。

長女からの手紙には、作者夫婦から届いた宅急便の中身や会った際にもらった物、一緒に食べた物が細かく記されているのが、とても印象的だ。そして作者は、そのすべてを自らの小説に登場させる。家族の日常を、長女から送られた荷物の包装紙の柄や絵ハガキの柄にいたるまで書き残さなくてはいけない、これは書き残すに値するものだと確信しているのだ。妻が長女に送ったシャツの色をどんな色かとわざわざ尋ね、妻の「ちょっと燻んだオレンジ色です」という答えも、同じ時に妻が注文したシャツが芥子色であったことも書き添える。あまりに徹底した作者の態度は、日常のハードコア、とでも呼びたくなる。きっと作者の作品は、本来、人にはこのような穏やかで平和な生活が与えられるべきだ、これが生活なのだ、という、この世界への強い抵抗なのだ。
庄野潤三は長い間、国語の教科書に載ってそうな作家ということで、関心の外にあたのだけど、松山巌須賀敦子の方へ』*3を読んで、須賀敦子さんとの所縁を知り、関心を新たにしたということがある。
須賀敦子の方へ (新潮文庫)

須賀敦子の方へ (新潮文庫)

  • 作者:松山 巖
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/02/28
  • メディア: 文庫