或る「初恋」の終わり(松田青子)

松田青子「『トランペット』と一緒の旅」『図書』(岩波書店)822、pp.24-27


ジャッキー・ケイ『トランペット』という本についての文章なのだが。


アメリカのコロラド州に住む叔母夫婦の家から、知覚の公立中学校にしばらく通っていたことがある、新学期がはじまる前に、学校の中庭に生徒の家族が集まってピクニックをする日があった。生徒と家族たちは広い芝生に散らばり、ピクニックシートをしいて、その上に料理の入ったタッパーやサイダーの缶を並べ、それぞれが時間を過ごしていた。叔母は交流会的な側面を考えて、日本の料理があった方がいいだろうと太巻きなどを用意していたが、この雰囲気だったらもっと適当でもよかったね、と言っていた。私はまとまった期間をアメリカで過ごすのがはじめてで、英語も話せず、そもそも引っ込み思案な性格だったので、シートに座ってじっとまわりを見上げていた。
ふとした瞬間、目の前を一人の男の子が通り過ぎた。短パンにTシャツの彼は、柔らかい髪の毛をしていて、きれいな顔をしていた。すらっとした足で快活そうに動き回って笑っている彼に、私はなんだか目を奪われてしまった。日本にいるときに読んでいた異国を舞台にした物語に出てきそうな子だと思った。誰かを好きになってみたい年頃だったので、私は簡単に、この子のことを好きになった。これが一目惚れかと感動さえしていた。伯父が話しかけたのか、その子が同じ学年であることがわかり、よろしくね、と私に向かって彼は微笑んだ。
学校がはじまると、受講しているクラスが違うのか、その子のことはあまり見かけなかった。たまに見かけると、静かにじっと見つめた。ジーンズやパーカー姿の彼が、リュックを背負い、教科書を抱え、次の授業が行われる教室に真面目な顔をして向かっていく姿は、やはり素敵だった。
びっくりしたのは、男女別の体育の授業に、その子がいたことだ。その子は女の子だったのだ。制服がないので、髪形や体型、服装ではまったくわからなかったし、同じくショートカットの私もそうだったけれど、まだ自然に男の子に見える年頃でもあった。Tシャツとショートパンツの彼女は、ひょうきんな動きと表情を見せて、走り回っている。元気な子だった。
なんだ、女の子だったのか、と軽くショックを覚えた私は、その瞬間、その子のことが好きじゃなくなった。なぜなら、女の子だったから。目の前で飛び跳ねているその子は、今では女の子にしか見えなかった。女の子だったことにがっかりした私は、私の理想の男の子を消してしまったその子のことが少し嫌いになってしまった。その後は、興味が冷めてしまい、学校で見かけても、だんだん目に入らなくなった。
この記憶をごく稀に思い出すことがあっても、これまでは、そういえば私の初恋は女の子だったな、と少し面白い笑い話のように感じていた。勘違いした私を、馬鹿だなあと思っていた。人に話すことも特になかった。
けれど、今思い返すと、彼女のことを好きじゃなくなった自分を哀れに思う。なんだ、女の子だったのか、と、スイッチを切るように一瞬で気持ちを切り替え、恋愛に憧れる子供の感情の戯れに近かったとしても恋心を消してしまった私のことを。その子は素敵なままだったのに。
女の子が女の子を好きになってもなんらおかしいことはないのだと、その時の私が知っていたら、何か違っていただろうか。同じ体育の授業にいるその子を見て、やった、同じクラスがあると、喜んでいたのではないだろうか。十代のはじめの私が、その頃には恋愛は異性同士で行うものであり、それが普通だという長年維持されてきた社会規範をすでに吸収し、内面化させていたことを、残念に思う。むしろ若かったからこそ、世の中の社会規範は絶対ではないという単純な事実を知らなかったのかもしれない。私は学べて良かった、知ることができて良かった、と思っていることがたくさんあるけれど、でも、はじめから当たり前のことになっていたら良かった。選択肢がもっとあったら良かった、と思うこともたくさんある。これは、好きでいることができなかった、残念な私の記憶だ。(pp.25-26)