ダウナー系技術(メモ)

数か月前に、核・原発問題はハイデガーの謂うGestellを参照して議論されるべきだと書いた*1


西谷修「核技術のゆくえ(2)」http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2011/07/post_98.html *2


曰く、


地震津波はひとたび襲ってきて過ぎ去ればそれで終わりである。だが、原発災害はそこが違う。事故が起きたときが始まりなのだ。通常の災害は過ぎれば過去になる。だが、原発事故は「これから」が問われる。どれだけ汚染が広がるのか、その影響はいつまで続くのか…。セシウム半減期30年、プルトニウムは2万4千年…。土壌をひっくり返しても、汚染は地中に残り続ける。地下水に浸透すれば、水脈をたどってどこまで広がるかわからない。
 
 福島第一原発は今後、何年にもわたって、いや何十年にもわたって近づけない場所になるだろう(一号機は炉心が溶け落ちるメルト・ダウンではなく、溶けた核燃料が圧力容器を破って落ちるメルト・スルーを起こしていると言われる以上、その見通しにも果がない)。そこには宇宙服のような防護服を着た技師や作業員しか近づけない。「不可蝕」なものを怖れながら扱わねばならない。まるで「廃棄物」が未開の聖性であるかのように。

 いま行われているのは、応急作業にしかならないだろう。長期的な対応としては、手のつけられない放射性物質の崩壊過程を、隔離し、封印するような作業が必要になる。そのとき福島第一周辺は立ち入り禁止の「ゾーン」になるが、これからの原発に関わる技師たちの仕事は、そのゾーンを隔離し護る、どこか神官にも似たようなものになるだろう。
 
 これまでの技術はハイデガーの言う「ゲシュテル」つまり自然を「堰き立て」て「開発する」たぐいのものだった。いわば、自然を責めて人間にとって有用なものを吐き出させるような技術だ。だが、これから必要なのはそれとは逆の、とめどなく吐き出されるものを「収め」「鎮撫し」自然へと帰らせるそんな技術だろう。それでなければ文字どおり「収まり」がつかない。そしてそれは実に実に息の長い、何世代にも引き継がれるべき作業になる。

また、「核技術のゆくえ(1)」*3では、「廃棄物」という概念が批判されている。実際は「廃棄」し得ぬもの;

(前略)われわれは核エネルギーを石炭や石油と同じように考え、あるいはその利用を?産業?のパラダイムにあてはめて語り、?核燃料?を利用した後に?廃棄物?ができると言いならわしている。けれども、核分裂によるエネルギー放出が、化学反応の?燃焼?などではないように、そこで生み出されるのも実は?廃棄物?ではない。むしろ実際には?廃棄することのできない代物?なのだ。

 人間はそれを、普通の生産工程になぞらえて?廃棄物?と呼ぶが、いざ?廃棄?しようとしてハッと気がつく。?廃棄?などしたらとんでもないことになる。それは、放射線を出して崩壊し続ける放射性物質であり、あるいはそれに汚染されたさまざまな関係物である。いわゆる?使用済み?核燃料があるし、よく言われる、核施設作業員の衣服や靴、使った道具、それを洗った水、等々もある。

 そして今回の福島第一の事故で現実的な視野に入ってきたのが、原子炉そのものが、あるいは施設全体が、巨大で処理しがたい?廃棄物?になるということだ。どんな原子炉もそうであり、福島第一のものは、設計時の予定をはるかに越えて、もう40年も稼動していた。もちろんその?廃棄物?には捨て場がなく、?廃棄?はできない。

 ということは、人間は?核?技術を用いることで、何を作り出したことになるのだろう。太陽にも匹敵する強烈なエネルギー? たしかに。石炭や石油や風水の生み出すエネルギーが穏やかな陽光だとすれば、原子核の分裂や融合から生まれるエネルギーは文字通り太陽のようで、その光は人間の目を焼き潰す。そしてその力をもつものをエネルギーの?副産物?としても生み出すのだ。

 いま?核廃棄物?と呼ばれているものは、御しがたい威力を場合によっては何万年も持ち続ける、始末のつかない?活物?なのである(これをイキモノと読んでもよいが)。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110513/1305215163 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111126/1322271884


西谷修氏のblogは興味深い言葉が溢れているといえるが、ただ小沢一郎に対する過大評価はいただけない。