Gestellからブリコラージュへ(中村雄二郎)

問題群―哲学の贈りもの (岩波新書)

問題群―哲学の贈りもの (岩波新書)

昨年、原発問題を巡って召喚されるべき哲学者はマルティンハイデガーだろうと呟いたのだが*1、それに関連して、中村雄二郎『問題群』(1988)から少しメモする(12「《技術とは手段ではなく、露わに発く仕方である》――ルロワ・グーラン、ハイデガーレヴィ=ストロースほか――」)。
中村氏は


だが、同じくものを製作するといっても、直接的な道具によって作るのと媒介性の高い機械によって作るのとでは、明らかに段階を異にしている。そして、技術が技術として問題になるのは、この媒介性の高い機械によってなされる工程、つまりテクノロジーあるいは近代技術と呼ばれるものである。たしかに、今日では、テクノロジーを扱えない技術論は意味をなさないけれど、先端技術のあれこれの現象だけに囚われてしまうと、かえってそこにある人間と機械との原理的な関係を取り逃してしまう。(pp.147-148)
と前置きして、ハイデガーの「技術への問い」(1955)を参照している。「テクネー(techne)」は「可能的なものの現実化をもたらすこと」であるが、細かく分けると、(1)「出で来たらすこと、つまりポイエーシス(創る、詩作)」と「認識し開明すること、アレテイア(覆いを取る、真理)につながること、つまり露わに発くこと」という両義性を孕んでいる(p.148)

このようなギリシア語のテクネーの意味と関連させて言えば、技術とは何よりもまず《露わに発くことの一つの仕方である》ことになる。だが、このような技術の性格は、原初的な技術についてならともかく、近代技術について果たしてどこまで当てはまるであろうか。たしかに近代技術においては、〈露わに発く〉ことは、ポイエーシスの意味での出で来たらすこととは結び付きえない。だが、少なくとも近代技術の挑発*2、つまり自然に向かってそのエネルギーの貯蔵や開発を促す挑発、を媒介とするとき、それは、やはりテクネーなのである。
昔の風車も風の力を他のエネルギーに変えてはいるが、しかしそこでは風のエネルギーは貯蔵するために開発されてはいない。それに反して、或る地域は、石炭や鉱石の採掘のために挑発される。また、もともと農夫の仕事は、耕地を挑発することではなかった。ところが、農業も近代化され、食品工業化されるようになると、挑発あるいは仕立ての渦のなかに次第に巻き込まれていく。そのほかでは、鉱石はたとえばウラニウムを、ウラニウム原子力を引き渡すために立たされる、というわけである。
〈テクネー〉とは、立て上げることに精通していることだとも言える。そして立て上げるとは、以前にはまだそこに存在していなかったものを、あらわな、近づきうる、扱いうるものへと立たせることである。
まことに、近代技術を隅々まで支配している〈露わに発く〉ことの働きは、挑発を通して立たせるという性格を持っている。そして挑発がなされるのは、自然のなかに匿されているエネルギーが開発され、その開発されたものが変形され、その変形されたものが貯蔵され、その貯蔵されたものがさらに分配され、その分配されたものが新たに転換されることによるのである。つまりこの開発、変形、貯蔵、分配、転換は、〈露わに発く〉ことのさまざまな形態にほかならない。
そして、そこでは、立て上げることが、あるがままの自然界には決して現われないような要素や素材の生産にまで、拡大される。しかも、この立たせる力は決して人間のつくったものではなく、したがって、科学も興行も経済もひとしくこの力の支配下に立たされることになるのである。だが、そのことの前提には、われわれ人間自身が自然のエネルギーを、また自分の力を開発するよう挑発されているという事態があるのではなかろうか。
だが、ハイデガーによれば《人間は技術に携わることによって、露わに発くの一つの在り方としての仕立てに参加するのであり》、そして、この仕立ての理(ことわり)は《決して人間の作ったものではない》。《人間を立たせる挑発が、人間を仕立てのなかへまとめていくのである。》近代技術はその本性がこのまとまり(Gestell, 組立て)のなかにあるため、精密自然科学を使うのであって、勤惰一技術は精密自然科学の応用では決してない。
技術についてのハイデガーのこのような考察は、技術を以て単に使い方次第の中立的なものだとも、応用自然科学だともせずに、その固有の存在構造を捉えたことは、注目に値する。挑発を通じて自然の力を露わに発くこと、それによって以前には存在していなかったものを、あらわな、近づきうる、扱いうるものへと立たせることを中心に捉えることによって、技術の秘密を明らかにしたと言えよう。
しかし、彼自身はこのような技術の仕組みを持った技術に対して、とるべき態度をどこに求めたであろうか。『放下(ほうげ)』(一九五九年)のなかで、ハイデガーは書いている。
今や世界は計算する思想のさまざまな攻撃の対象になり、それらの攻撃には、われわれは抵抗するすべもない。現代技術のうちに内蔵されている力は地球全体をすでに支配し、さらに宇宙のうちに突進し始めている。その一方では、技術は人間の生命と本質に向かっても攻撃を開始している。
このような事態に直面して、技術に反抗して盲目に走ることはもちろん、技術を悪魔の仕業といて呪詛するのは採るべき態度ではあるまい、むしろ望ましいのは、一方で技術の恩恵を受けながら、他方で本質的に技術から自由になることであろう。すなわち、《諸々の技術的な事物をわれわれの世界のうちに入れさせながら、同時に、それらを外に、つまり、物としてそれら自体の上に置き放つことである。》もっと端的に言うならば、《物への関わりのうちでの放下》ということになろう。(pp.149-152)
中村氏は「放下」の効力に疑問符を付けている。「ハイデガーは、この放下とともに、技術的世界のうちに包蔵されている秘密の意味に向かって自己を開くことの必要性を説いているけれども、私にはれで技術時代に十分対処できるとは思えない」(p.152)。そして、

現代の巨大技術の独走あるいは専制的支配に対しては、かつては資本主義的な営利主義や功利主義の原理を越えた、社会自体の合理的再組織化、とくに社会主義化の方向に打開の方策が求められた。けれども。チェルノブイリ原子力発電所の事故が示したように、社会主義化の方向には官僚主義とそれに伴う秘密主義の落とし穴があることが露呈された。
したがって、今日当面の問題としては、一方では、体制の相違を超えて、官であれ軍であれ公社であれ企業であれ、巨大技術を管理・運営する当事者が、機械および組織の全システムを掌握しつつ、責任ある態度を持って事に当たること、そして他方では、一般市民が、関心と責任を持ってそうした運営・官吏を監視しチェックすることを、実行するより仕方がない。
だが、もっと根本的な問題としては、これまでのように能率的で性能のよい技術、人間生活から冷ややかに独立し、自己目的化していく技術だけを追求するだけでなく、テクネーの原義に近い、技術的製作が同時に芸術的創造でもあるようなものに立ち帰るとともに、先端技術や巨大技術をいたずらに肥大させないようにすることが必要だ。(p.154)
と述べ、Gestellに対して、レヴィ=ストロース謂うところの「等身大の技術」としての「ブリコラージュ」*3を対置する(p.155)。曰く、

(前略)ブリコラージュでは、人が用いるものは有り合わせの既成の道具や品物など、そのときどきで限られている。それらの道具や品物の秩序立っていない総体のなかから、彼はもっとも適切なものを選び出して使うのである。その総体にしても、あらかじめ計画的に集められたものではなく、偶然に過去から残っているあれこれのかけらや、たまたま集められ大切に保存されたガラクタ類から成っている。それらのものの用途は、半ば特殊化されてはいるけれども、はっきり決められているわけではない。人はそれらのものを用途によって分解してしまわずに、必要に応じて上手に使うのである(『野生の思考』)。
このブリコラージュはいま私たちにとって、二つの点で注目に値する。一つは、数の上でも性能の上でも限られた道具と材料をいろいろと組み合わせて実に多くのものがつくられる、つまり多くの創造がなされるということである。まさに技術がそのまま芸術であるような形態である。もう一つは、そこでは、ハイデガーのいう意味での。自然を挑発して立たせることが行なわれていないということである。ということは、人間自身が自然のエネルギーを持ち出すように挑発されていない状態を保っていることである。
(略)自然のエネルギー、そしてさらには隠された情報を役立たせ、利用することの誘惑は大きい。しかし、いまわれわれに求められているのは、そのコントロールなき増大が地球の生態系のみならず、人類の神経系をも破壊することを見究める想像力であろう。(pp.155-156)
ブリコラージュに関しては、小田亮レヴィ=ストロース入門』、出口顯『臓器は「商品」か』をマークしておく。また「巨大技術」批判としては高木仁三郎『科学は変わる』。そういえば、動物に対する遺伝子操作を扱ったBernard E. Rollin The Frankenstein Syndrome: Ethical and Social Issues in the Genetic Engineering of Animals(Cambridge University Press, 1995)の頁を捲り始めた。
野生の思考

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レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)

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臓器は「商品」か―移植される心 (講談社現代新書)

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The Frankenstein Syndrome: Ethical and Social Issues in the Genetic Engineering of Animals (Cambridge Studies in Philosophy and Public Policy)

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