「地平」を巡るメモ

承前*1

「地平(Horizont/horizon)」は私たちの知覚のあり方に関わった概念。写真にピントが合わせられた中心的主題と同時にボケた周辺的事物も写っているように、私たちが何かを見るとき、見る対象と同時にその他の周辺的事物も非主題的に知覚している。この同時に非主題的に知覚されるものが地平であるといえる(cf. Kevin Mulligan “Perception” in Barry Smith & David Woodruff Smith (eds.) The Cambridge Companion to Husserl, pp.203-204)。地平はウィリアム・ジェームズのいうfringe(cf. eg. 『心理学』)に近い概念である。

The Cambridge Companion to Husserl (Cambridge Companions to Philosophy)

The Cambridge Companion to Husserl (Cambridge Companions to Philosophy)

心理学〈上〉 (岩波文庫)

心理学〈上〉 (岩波文庫)

心理学〈下〉 (岩波文庫)

心理学〈下〉 (岩波文庫)

新田義弘『現象学』から少しメモ;

知覚は絶えず直観的所与を越えて、随伴的に思念されている非直観的なものへと向って超え出てゆく運動である。このことをフッサールは「外的知覚は、その固有の本質にしたがえば、果たしえないことを果たそうとする不断の僭越行為(Pratention)である」(H. XI. 3)という言いかたで表現している。直観的なものに随伴する知(Mitwissen)は、直観的なものに指示された先行的な知(Vorwissen)である。知のこの先行性を表わすためにフッサールは「先行的枠取り――あらかじめ輪郭を画くこと(Vorzeichnung)」という概念を使用している。現出物にはそれを取り囲む、まだ充実されていない空虚な地平が随伴するが、この空虚地平は決して任意に満たされるものではなく、つねに「規定可能な無規定性」という形式で「意味の枠(Sinnerahmen)」(H. XI.10)がそこに定められている。言いかえると、対象の規定作用とともにつねに規定の可能性を導く先行的な枠組が設定され、新しい現出への移行に規則を与えているのである。(p.97)

知覚は対象に対する一定の関心をもつ規定連関であるが、関心方向によって知覚作用は段階的に区別される。対象を端的に把握する最も単純な知覚は把握作用(Erfassen)であり、同一対象をその固有性質や部分契機によって規定してゆく知覚は表明作用(Explizieren)である。さらに或る対象を随伴的に与えられる他の諸対象に関係づけて規定してゆく知覚は関係づけ作用(Beziehen)である。表明的知覚が対象をその色や形態によって規定することは、対象の内部地平(Innenhorizont)へ自我関心をさし向けることであり、関係的知覚の関心は随伴対象の所属する外部地平(Außenhorizont)へと向けられる。内部地平と外部地平は互いに独立した地平というよりも、対象のもつ二重の地平として、互いに基づけあいながら錯綜しあっている。対象に関する新しい規定を獲得することは地平の解明であるが、いかなる規定も究極的な規定ではなく、地平はつねに開放されている。個々の対象に関する地平は開放的有限性の地平であるが、内部地平と外部地平の相互の錯綜のなかで、地平自身が自らの地平として全体的地平をもつ。これが世界地平である。世界地平は「随伴客体の開放的無限」として外部地平の極限現象であるが、そのつど個々の経験対象とともに「いつもすでに(immer schon)」現象している。しかし世界地平は決して主題化されることなく、つねに匿名的にとどまっている。(pp.101-102)
「地平」と「パースペクティヴ性」の関係を巡って;

(前略)地平をより詳しく規定してゆく経験の過程は、究極目標としての真理の概念との関連において、言いかえると「理性の現象学」の視角から始めて理解することができる問題である。真理の概念は、「真なる自己」「思念されたものの自己所与性」「完全に充たされた意味」という表現に語られているもの、すなわち意味と存在の統一された所与性であり、対象志向とその充実との完全な合致を意味する。
しかるにこの対象の十全的な自己所与性は、現実の経験の過程にあっては、決して実現されえないものである。十全的な自己所与性は、「連続的な現出作用の無際限の過程に絶対的に規定された体系」(H. III. 351)として、現実の経過の過程のなかでは決して追いつくことのできないものであり、フッサールはこの「絶対的に規定された体系」を「カント的な意味での理念」(H. III. 350)であると言っている。その理由は、「絶対的に規定された体系」が、同一の物に関係づけられた現出の、完結したと考えられる系列であり、それ自身現出することはなく、むしろ現実の現出にとって規則として作用するものであるという点にある。しかし、カントの場合とは異なって、フッサールでは、無際限の系列の完結した統一は、それ自体として思惟することはできないものである。もはやいかなる予科をも含まない空間物の意識といったものは到底考えられないのである。経験はあくまで原理的に無際限性を免れることはできない。それゆえこの「完全なものと考えられる系列」としての物の絶対的自己所与性は、経験の過程のなかでこの過程に対して極限として働く理念ではあるが、決して現出の過程の背後に想定される物自体のような性格を有さない。(略)絶対的明晰性である十全的な自己能与は、経験の過程のなかでは理念的極限という目標の意味でのみ理解されねばならない。
目標としての理念は経験の過程に対する規則的原理であり、地平を不断に露呈してゆくことによって一つの規則体系として発見されるべき原理である。したがって経験の過程は、この極限理念に向う近似化(Approximation)の過程として性格づけられている。フッサールは、近似化に理念への高まりという量的性格を与えているが、理念と近似化の関係についての彼の記述は必ずしも明晰であるとは言えない。(略)だが、フッサールによって経験の過程が極限理念への近似化過程として把握されたという事情のなかには、科学の成立にとってきわめて積極的意義をもつ問題が隠されている。第一に挙げられるのは、遠近法化(Perspekutivierung)と脱遠近法化(Entperspektivierung)との緊張した力動的な相互関係である。経験の進行が極限理念への近似化であることには、一方では経験の過程が未完結であり、無際限であることが、他方ではすでに経験のなかに脱遠近法化の傾向が働くことが意味されている。経験は遠近法性を決して脱却できないが、しかし同時にそれを克服する傾向を内に蔵している。第二に挙げられるのは、学問的真理としてのロゴスと、遠近法的な相対的な性格をもつ生との相互依属性のなかにみられる循環関係である。真理自体自体という目標理念は、遠近法的過程の運動根拠となり、逆にこの運動過程が理性的理念の発生根拠となり、両者は循環関係を形成している。この循環性格は、科学の成立に避けがたくつきまとう一種の解釈学的循環関係と目的論的側面を表わしている。(pp.113-116)
「規則的原理」に関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090219/1235057079で引用したドゥルーズ『カントの批判哲学』への國分功一郎氏の「統制的原理」についての訳註を参照されたい。また、ここで言われる「一種の解釈学的循環関係」については、張江洋直「シュッツと解釈学的視座」(in 西原和久編『現象学的社会学の展開』、pp.41-71)も参照のこと。
現象学 (1978年) (岩波全書〈302〉)

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カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

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現象学的社会学の展開―A・シュッツ継承へ向けて

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