http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080729/p1
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080730/p2
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080801/p1
を読んで、俄然『崖の上のポニョ(懸崖上的金魚姫)』を観たくなった。
上で語られていること乱暴に2点に纏めると、
アートは言語(ロゴス)に還元できるか
ミメーシス的なコミュニケーション
ということになるだろう。
たしかに、アート(音楽、映像、美術、詩歌、料理etc.)、特にそれらによって触発されたものを、言葉にすることは困難で、言葉にしようとすると常に失語状態に陥ってしまい、ああ「ソムリエ」*1は偉いなと思ってしまう。しかしながら、アート、特に現代アートはその困難(或いは不可能)にも拘わらず言葉を要請する。この絵はスープの缶詰が生々しく描かれていて凄い!と素朴に感動することはできない。現代アートは、〈スープの缶詰〉がそこにあることの意味を巡って何か言葉を発することを観る者に強いる。批評家のポジションに立たないと面白くないということだ。
では、如何にして言葉に達するか。勿論、アートを道徳的教訓や政治的アジテーションに還元するのは最悪最低だし、アートの掟にも背くことになるだろう。考えられるのは、隠喩を駆使する「ソムリエ的実践」。また、〈否定神学〉的実践。とはいっても、ここで念頭に浮かんだのは小難しい神学論議ではなく、藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」(『新古今』363、p.76)。ここでは、「花」や「紅葉」の否定を通じて言葉から漏れた「秋」が現出される。但し、これらの場合、詩的言語のスキルが要請される。勿論、こうした言葉たちがそもそもの作品、或いは作品と私とのインターフェイスに届くことはない。近づこうとして、あらぬ方向に逸れてしまう。そして、気づいたら(良し悪しはともかくとして)別の作品になっていたというイメージか。
- 作者: 佐佐木信綱
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Now the party´s over
I'm so tired
then I see you coming out of nowhere
much communication in a motion
without conversation or a notionWhen the samba takes you out of nowhere
and the background's fading out of focus
yes, the picture's changing every moment
and your destination
you don´t know itWhen you bossanova
there´s no holding
would you have me dancing
out of nowhere?Avalon
Avalon
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