最初は小さかった

金龍静「1498年 一切衆生ヲ平等ニ往生セシメン――教団の誕生」『鴨東通信』(思文閣出版)29、p.6、1998


曰く、


今を去ること500年前の1498年(明応7年)、84歳を迎える蓮如*1という老僧がいた。京都山科の本願寺は、75歳の時に子の実如へ譲り、堺御坊に妻子と共に移り住んでいたのだが、82歳の時に、摂津東成郡の上町台地の北端の小さな坂地に坊舎を建立し、新たにそこへ移り住んだ。その地は、地字名がなかったので、小坂・尾坂=おさか=大坂と呼ばれだし、町場も急速に発展していった。巨大都市大阪の誕生時の風景である。彼はなぜ堺を捨てて、その地を選定したのか。あるいは、6歳の時に出奔し、西国へ向かったらしい母親と、可能な限り近い地において、自らの死を迎えようと思い立ったのかもしれない*2
また、

彼は、高僧・師匠と称される善知識に結集するのではなく、本尊と宗祖に結集すべきことを訴えた。師恩ではなく、仏恩を奉ずべきことを訴えた。集団が集団として結集する際の基準軸の新たなる設定。これはじつに、千数百年の日本仏教史の歴史のなかで、現代に直接つらなる「宗派仏教」の初めての成立を意味する。
彼はまた、本尊阿弥陀如来と宗祖親鸞の教説を、簡潔・明瞭に要約し、対象を直接の弟子に限定することなく、広く不特定多数の人々に向かって、『御文=御文章』という新メディアに載せて、メッセージを発信し続けた。(後略)

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070922/1190388303 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100817/1282073048

*2:しかし、蓮如は翌年にはまた山科に戻り、そこで没している。