「鉢屋」(メモ)

日本民衆文化の原郷―被差別部落の民俗と芸能 (文春文庫)

日本民衆文化の原郷―被差別部落の民俗と芸能 (文春文庫)

沖浦和光『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』*1からのメモ。


鳥取藩の歴史を調べてみると、他の藩と同じく身分制の底辺に「穢多」「非人」がおかれているが、とくに注目されるのは「鉢屋」の存在である。彼らは、時宗の流れを引き、京都の極楽院空也堂を本山とする「空也念仏聖」の一派とされる集団だった。西国を中心に全国に空也念仏聖は分布しているが、とくに山陰地方に多かった。そこに居住する念仏聖は鉢屋と呼ばれたのだ。
彼らは、「百姓町人と対等の交渉なく、町村の端々に群居し、竹細工を業とす。根帳・五人組・宗門改など穢多に同じかりき」と『藩史』に出ている。
彼らは、鉢を叩きながら念仏を唱えて門付けして歩いたので、「鉢叩き」「鉢ひらき」とも呼ばれた。鉢とは、僧尼が持参する食器のことである。そこから、「鉢を開く」とは托鉢して回ることを意味した。
瓢箪を叩くこともあったのであろうか。京都の空也堂には、古い瓢箪がたくさんおいてあった。正月になると、念仏を唱えながら、竹細工でつくった茶筅を藁の苞にさして売り歩いたので、「茶筅」とも呼ばれた。
彼らは、空也上人(九〇三〜九七二)に由来する漂泊の「念仏聖」の系譜を引くことを誇りにしていた。念仏踊りを特技としたから、中世の時代から芸能にゆかりのある賤民とみなされてきたのである。事実、彼らの中からいろんな芸能民が出たのである。(pp.165-166)
また、出雲・石見については次のように述べられている;

(前略)中世の末期の頃、出雲・石見の地方には、「鉢屋」と呼ばれた賤民層があった。
もともとは空也僧の流れを引く、踊り念仏衆の末裔であった。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら、貴賤・男女を問わず、すべての人は極楽往生できると説いて各地を托鉢して歩いた。「鉢屋」と呼ばれた小集落を形成して、実際には大和の声聞師と同じような役割を果たしていた。
戦国時代に入ると、尼子勢は彼ら「鉢屋」勢を組織して十阿弥を名乗らせた。尼子晴久の時代には権阿弥、松阿弥などが合戦に活躍したと記録に残っている。近世に入ってからは、竹細工・川魚捕り・渡守・神祭の警固・遊芸・下級警吏などの仕事にたずさわっていた。(p.240)
空也堂」についてはhttp://kyoshiro.seesaa.net/article/17210288.html 現在は天台宗に属す。
時宗といえば一遍上人であるが、『一遍聖絵』、『一遍上人語録』、栗田勇一遍上人』をマークしておく。栗田勇の本で興味深かったのは一遍と日蓮との関わりについての記述、また〈合戦〉を巡って勝者また反対に殺された者については語られるが、そのどちらでもない負傷して障碍者となった者たちは隠蔽されているという指摘だったのだが*2http://www.cityfujisawa.ne.jp/~m-itazu/ippen.html一遍上人アッシジの聖フランチェスコを比較した大胆な論。また、松岡心平『宴の身体』*3を久しぶりに捲ってみた。
一遍聖絵 (岩波文庫)

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一遍上人語録 (岩波文庫 青 321-1)

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一遍上人―旅の思索者 (新潮文庫)

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宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

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「阿弥」という法名http://www.cityfujisawa.ne.jp/~m-itazu/ippen.htmlでも触れられているが、「阿弥」を名乗っていたのは時衆には限らなかった。広く「遁世者」が名乗っていたといっていいだろう。また、中世には宗派には属さない念仏の行者がかなりいたわけだ(後に、これらの人々の多くは蓮如本願寺教団にオルグされてしまうことになるのだが)。
ところで、巴々佐奈という方の「一向宗そして時宗*4は、時宗に近い「一向宗」という浄土系の宗派があり、蓮如が「一向宗」の信者を大量に取り込んだために親鸞の門流が「一向宗」と呼ばれるようになったという話。