啐啄同時

山折哲雄*1「「啐啄」の弁証法」『機』(藤原書店)381、p.25、2023


「啐啄同時」について。


(前略)一般には聞き慣れない四字熟語かもしれないが、これまた東アジア文化圏ではレッキとした花鳥諷詠の弁証法ではないかと思う。あえていえば「師と弟子の弁証法」ともいえるもので、ヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」とは一味も二味も違う。
出典は中国宋代の『碧巌録』。(略) 著者は北宋の圜悟克勤(十一世紀)、その「第十六則」の公案(試験問題)に出てくる。仏教学者末木文美士氏の解説によって現場を浮き彫りにしてみよう。(略)「鶏の孵化」の場面である。
その孵化の時、中の雛と外の母鶏は相応じて殻を破る。それはあい対峙する師と弟子の心機が投合する瞬間を喩えていったものだ。(略)「師と弟子の弁証法」といっていいだろう。中から雛がコツコツと殻をつつく(啐)、外から母鶏が叩く(啄)、それが同時におこる。こうして殻は破れ、新しい生命が誕生する(同氏『『碧巌録』を読む』岩波現代文庫、一九七―八頁)。

この『碧巌録』については明治以降、禅への知識人の関心が高まり、よく読まれていたようだ。たとえば夏目漱石の『門』*2にはそれが出てくるし、先進的な共和思想の持ち主だった中江兆民もたびたび引用している。またこのテキストの旧戦前版の校訂者は鎌倉円覚寺の老師で、若い人たちとくに旧制高校の学生たちの必読書にもなっていた。デカルト、カントなどの哲学書といっしょに読んでいたという。(後略)