棹さすの反対?

松川絵里*1「「〈つながり〉と〈しがらみ〉」@Ziba」http://matsukawaeri.hatenablog.com/entry/2019/02/13/140812


少し抜き出してみる;



〈つながり〉が〈しがらみ〉に変わるというより、そもそも人間関係って〈しがらみ〉から始まるのでは?

子が親を選べないのはもちろん、親だって子を選べないし、地域や学校、職場の人間関係だって、その人と選んで関係が始まるわけじゃない。

最初に〈しがらみ〉があって、そのうちのいくつかが、やがて〈つながり〉に変わるんじゃないかな。

(参加者の言葉より。ただし、メモをとっていたわけじゃないので、表現は多少ちがってるかもしれません。あしからず)

この指摘を聞いた瞬間、「しがらみ」という言葉の印象が、ガラリと変わりました。

それまで重くのしかかるように響いていたけれど、良い意味で軽くなるのを感じました。

すべての関係性は〈しがらみ〉から始まる。

だったら、〈しがらみ〉があるのは当然だし、無理になくそうとしなくていいや。

そう思えたのが、わたしにとって一番の収穫だったかも。

諸々の関係、そのうち、私が選択したのではなく寧ろ賦課された(imposed)もの、切りたくとも諸般の事情で切れない関係が「しがらみ」と呼ばれる。関係がポジティヴなものとして感じられるとき、或いは未だないけれどあらまほしきもの、(私が)選択すべき/選択してみたいものとして理想化されるとき、それはと呼ばれることになる。「つながり」というのは中立的な感じが(少なくとも私には)する。「しがらみ」であっても、それを自覚的に選び直すということはできる。また、自分が選んだものであっても、選ぶというそのことによって、他のものの選択をキャンセルしたり一時的に凍結するということもある*2。それは、自覚的に「しがらみ」をつくり出すことだといえないだろうか。
さて、「しがらみ」はそもそも語源的にはネガティヴな意味の言葉ではなかった。神永曉「「しがらみ」──マイナスの意味のことばではなかった」に曰く、

「しがらみ」という語は、動詞「しがらむ(柵)」の連用形が名詞化したものである。「しがらむ」は、からみつける、まといつける、からませるといった意味である。これが、名詞となって、水流をせき止めるために川の中に杭(くい)を打ち並べ、その両側から柴(しば)や竹などをからみつけたものをいうようになる。漢字では「柵」と書くが、「柵」は角材や丸太などを間隔を置いて立て、それに横木を渡した囲いが本来の意味である。
 「しがらみ」の使用例は古く、『万葉集』(8C後)に柿本人麻呂の歌として、

 「明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし」(巻二・一九七)
 という歌がある。歌意は、「明日香川にしがらみをかけ渡してせき止めていたら、流れる水もゆったりとしていたであろう」というものである。天智天皇の皇女であった明日香皇女(あすかのひめみこ)が死去し、その殯宮(もがりのみや=仮埋葬の期間に行われる喪儀の宮)で人麻呂が詠んだ短歌である。おそらく、何らかの策を講じていれば明日香皇女の命ももっと長らえていただろうという、痛恨の思いを詠んだ歌であろう。この歌の「しがらみ」にはマイナスのイメージはない。むしろ、悪化するものをとどめてくれるものというプラスのイメージすら感じられる。
https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=388
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』*3を思い出す、唐突に。
わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

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