連続性への権利

田渕紫織「夫の姓、むしろ好きだけど……「旧姓」使い続けなければならない理由」https://withnews.jp/article/f0180427000qq000000000000000G00110101qq000017225A


事実婚」から「法律婚」への移行と同時に夫の苗字に改姓して、「三好絵里」になった「哲学者」*1の松川絵里さん*2が、にも拘らず「夫婦別姓*3を望む理由を巡って。


コンパクトな岡山の街では、仕事で知り合い松川姓を名乗った人とオフの日にばったり会うことや、プライベートだからと三好姓を名乗った夫の知人と後に一緒に仕事をすることも日常茶飯事です。

 「暮らしのなかで公私は分けられないのに、二つの名前を使い分けなければならないことに、無理を感じます」


「ウェディングドレスに憧れるのと同じで、結婚して夫の姓を名乗ることに、憧れがないわけでもなかった」

 無邪気に考えていたものの、改姓してみると、まず仕事上の壁に当たりました。

 「名前を変えると、私を私だと気づいてもらえず、結婚前の実績が消えてしまう」と気づき、仕事上は旧姓を使うことに。

 学生時代から「松川絵里」の名前で哲学カフェを開いたり、論文を書いたりしてきたからです。一度も会ったことのない人からメールで「松川絵里」の名前を頼りに講演などの仕事を受けることも少なくありません。


「私のように結婚前の実績を生かして個人で新しい仕事をつくっていこうとするならなおさら、名前を変えなければいけないのは、足を引っ張られていると感じます」

 旧姓に愛着があるという人もいますが、松川さんはそうではありません。むしろ名前の響きは「三好」姓の方が好きだと言います。

 「好き嫌いや愛とは別次元で、名前を変えることで、社会の中で自分が識別されないということに、一番の違和感があります。名前を持ってこの世界を生きる以上は、多くの人が行き当たる違和感ではないでしょうか」

私の人生において、(可能性としては)無限に多様な〈私〉が産出される。しかしながら、同時に、私は生まれてから死ぬまで(或いは死後も)私であり続ける(私でしかあり得ない)。多分、それを示す(こともある)のが変わらぬ姓名というシニフィアンなのかも知れない。赤ん坊であっても、大人であっても、老人であっても、さらには死体であっても、私が常に同じ姓名によって指示され続けること。
blogエントリーとしての「夫の姓、むしろ好きだけど‥‥‥「旧姓」使い続けなければならない理由」*4に曰く、

 婚姻届を出す前は、姓の変更に煩わされるのは、ほんの一時のことだと思っていました。

まさか、新たなご依頼を受けるたびに、税金に関する手続きをするたびに、街で人と会うたびに、「私が今ここで名乗るべき名前はどっち?」、そう確認しなければならなくなるとは!

決定的に生きていけないほど困るわけではない。

けれど、日々の暮らしのなかでじわじわ積もる煩わしさ、もどかしさ、不安。

特にこの取材を通して気づかされたのは、ひとつひとつの作業の煩わしさ以上に、「周囲にいちいち確認の手間をとらせて申し訳ない」という後ろめたさや、「私を私として認識してもらえるだろうか?」という不安を絶えず抱え続けなきゃいけないという心理的負担が大きいということです。

そして、それを夫婦のどちらか一方が担わなければならないという違和感。


記事にもあるように、私はどちらかというと夫の姓が好きです。

そもそも、自分の姓にそれほど拘りもないし。

でも、婚姻前に築いてきた関係や実績も大事にしたい、そう思ったとき、夫の姓を名乗って仕事や活動をするのは失うものが大きすぎると感じました。

だって、もしこのブログのタイトルが「みよしえりのてつがく日誌」だったら、このブログを書いているのが神戸や大阪で哲学カフェをしていた私だと気づいてくれる人なんて、一体何人いるでしょう?

荒井由美」が「松任谷由実」になるのとは、ワケがちがう。


そもそも名前って、私の名前だからといって私の自由になるものじゃない。

相手に私の名前だと認識されて、相手に呼ばれて、はじめて「名前」として機能するもの。

社会のあり方が変われば名前のあり方も変わらなきゃ。

松川さんは2016年に「中之島哲学コレージュ「夫婦別姓はあり? なし?」」という哲学カフェを開催していて*5、そこに田渕紫織記者が参加していたらしい。
鷲田清一先生の『哲学の使い方』*6で、松川さんが関わっている「カフェ・フィロ」(「カフェフィロ」)*7が言及されていて(p.193ff.)、松川さんの文章も引用されている(p.202)。「哲学カフェで重要なのは、知らないことを知るための問いではなく、知っていることを改めて問うような問いである」。
哲学の使い方 (岩波新書)

哲学の使い方 (岩波新書)

See also


水町衣里「哲学者・カフェフィロ副代表 松川 絵里 さん 哲学者として生きていく」http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/co/2018/000256.php

*1:或いは、「てつがくやさん」。See 梶谷真司「邂逅の記録42:「研究」でない哲学 〜 カフェフィロの松川絵里さんを迎えて」https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2013/02/post-599/

*2:http://matsukawaeri.hatenablog.com/

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060503/1146669098 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090419/1240150549 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090905/1252117392 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090918/1253249073 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090928/1254069607 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090930/1254274901 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091004/1254679093 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091123/1258950633 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091126/1259205760 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100104/1262603428 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100528/1275011275 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100621/1277091830 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100625/1277433569 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100713/1278999372 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100802/1280726806 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101209/1291899124 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131007/1381125070 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131023/1382498882 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131116/1384584256 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140930/1412049585 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150219/1424355486 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150424/1429891088 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160101/1451673079 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170102/1483336796 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170127/1485512464 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170310/1489118556 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171008/1507428500 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180211/1518366402 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180221/1519218130

*4:http://matsukawaeri.hatenablog.com/entry/2018/05/01/102605

*5:http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/2016/001043.php

*6:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150424/1429844873

*7:http://cafephilo.jp/