マルクス/吉本(メモ)

宗教論争

宗教論争

吉本隆明と小川国夫の対談、「生死・浄土・終末」*1 (in 『宗教論争』、pp.107-153)から。
吉本の発言。澁澤龍彦の〈サド裁判〉に証人として出廷した際に、「特別弁護人」の埴谷雄高から、「あなたは何が善であり、なにが悪であると思うか」と質問され(p130)、


(前略)レーニンという革命家がいるが、レーニンプロレタリアートつまり階級としての労働者に対して利益であれば善であり、利益でなければ悪であるとはっきり言い切っている。けれども僕は、何がプロレタリアートのために善であり悪であるかという基準というのはそう簡単じゃないと思う。だから、レーニンのように明快に答えることはできない。だけど、何が善であるか、何が悪であるかというイメージがないわけではない。そのイメージは、結局は、(略)個人主義を守るという人であったとする。またあるものは共同体、あるいは社会というものが存在し、発展していくことが重要であり、そのためには個々の人の個人史というものが制約、規律、規範をもうけられて、そのなかで処理されなければならない、そうしなければ共同体社会というのは保っていけないと考える人であったとする。ところが、そういうものがどんなふうに併存していても、かならずお前の考えかたはおかしい、いやお前の考えかたのほうがおかしいというふうに、すくなくとも現在の世界の段階で対立になってしまいます。もし、そうじゃなくて、ここに個人主義的な考えかたをする人がいて、ここに共同主義的な考えかたをする人間がいる、その両者のあいだには、またさまざまなニュアンスをもった考えの人が無数にあるとしてますと、その相互のあいだには、格別、どちらがいいとか、どちらが悪いとか、こうなるべきだとか、こうならなければならないとかいう考えかたの対立抗争がなくて、しかも併存できるという社会、あるいは何でもいいんですが、そういうものがもし存在できれば、そこのことが善だと思う。だけど、それ以外の考えかたはどんな考えかたに帰一しても善ではないと言うべきだと答えたと思います。
そのイメージはわりに強烈にあるんです。マルクスなんかは、簡単に言っているわけです。個人がとても自由に恣意的にふるまっても、全然他に抵触しないという社会が窮極的に描ける社会だというわけです。窮極的に描けるという意味は、つまりそこから新しい人間の社会がはじまるというふうに明解に答えているんです。僕はどうしてもそう明解に考えられないところがあって、だからいろいろな考えかたがあっても、そでも対立や抗争が全然おこらない、そうだったらそれはいいなじゃないか。善じゃないかと、思うのです。(pp.130-131)
「そこはやっぱりマルクス楽天的にすぎるというところがあるんでしょうね」という小川国夫の言葉(p.131)を挟んで、

(前略)それよりもマルクスは、元がまず無意識に、人間の歴史のなかにあって、つまり原始時代みたいなところに元があって、あるいはもっと極端言ってしまえば、動物的社会でもいいんですが、そこで別に意識することなしに食いたいものがあったら取って食うし、あいつを食っちゃうというようなことも別に善だの悪だのいうことなしに食っちゃうという、そういう意味ではとても恣意的に振舞って、それで、弱いやつらは食われちゃうかもしれない、強いやつらはのこるかもしれない。また天然自然の変化に適応できずに滅びちゃうかもしれない。そういうのはいずれにせよ意識的ではない。そこでは善悪というのは何もない。そういう自然法的な考えかたがはじめにあって、それと相似て、自覚的に意志的に振舞われていてもけっして他者を侵害することがないというイメージが出てきてると思うんです。なにか共同体的なものと個人的なものが止揚されているというか、一緒になって、個人的に振舞うということ自体が共同的に振舞うこととなんら差別がない。相違がないというイメージじゃないかと思います。だから楽天的というよりも、かなり理論的ではないかという気がします。(pp.131-132)
マルクス的「イメージ」であるが、そういうのは「止揚」とかではなく、たんに均衡としてしか成立し得ないということを、私たちは学んできた筈だ。吉本の「どうしてもそう明解に考えられない」というのはそれと関係あるか。
また、

(前略)日本のマルクス主義者はみんなそんなことはねえっ言うんだけれど、僕の理解ではそうじゃないんですよ。というのは、マルクスなんかの場合、イメージとしては動物に近いということをさっき話しましたけれど、人間というのは本来はそれぞれの個人、個体があたかも動物のように勝手にというか、自由に振舞いたいというのが根底にあって、それはわりあいに自然的根底で、それにもかかわらず社会を、つまり共同体を人間がつくってしまったんだという考えかたが根本の考えだと理解します。本来は、人間はそれぞれが動物時代に勝手にやっていたように、自由奔放に振舞いたかった。それにもかかわらず必然的に共同体や社会的なものをつくってしまった。これを最終的に止揚したときには、やっぱり奔放に振舞って別に相侵しあうことがないし、奔放に振舞うことは共同的に振舞うこととまったく同じことを意味することになるだろうと言っているように思うんです。
だから、けっしてその理想の社会にいたるまでには、ある共同体の共同的な契機というものがプロセスとして必要であって、そのときには個人というものが、個人の自由みたいなものが制約されるというふうにマルクスは考えなかったと僕は理解しているわけです。しかたがないから、過渡的なかたちとしてしかたなしに、個人の自由が制約されるということはありうるだろうし、制約されるかもしれないけれど、しかたなしにそうなっていることなんだよというニュアンスと、その過程にはかならずそういう段階があるから制約されるのもやむをえないんだというニュアンスはちがうと思います。日本のマルクス主義者はそういう過渡期がどうしても必要だとすれば、そのなかで個人が制約されるのは当然なんだと思っているわけです。僕のマルクス理解のしかたはそうじゃないんです。しかたがないから制約されることがあるんだよってマルクスは言っていると僕は理解しています。おそらく僕のほうが正解だろうと思います。
(後略)(pp.134-135)