「コトバ」としての「色」(ゲーテ)

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

若松英輔『生きる哲学』*1第5章「聴く 志村ふくみと呼びかける色」から。
ゲーテ*2の『色彩論』に触れて;


ゲーテは稀代の文学者でもあったが、植物学をはじめとした独自の科学論を構築した人物でもあった。なかでもその色彩論は、色を無機的な物質としてのみ捉えていた従来の視座を、根本から覆すものだった。ゲーテは色に意味や感情、さらには永遠と歴史への扉を見る。色は彼によって、生きている自然の「声」として認識された。ゲーテの色彩論は今も生きている。私たちは今も色に意味を感じ、感情を感じている。詩人たちが「青い悲しみ」と書いてもいぶかしく思ったりしない。ゲーテにとって色とは、何事かを語る自然の「コトバ」だった。
眼を閉ざさなければ自然の「声」は聴こえてこない、とゲーテは言う。ときに見ることは「声」の顕われを阻害する。祈るとき人は自ずと眼をつむる。眼を閉じるのは単に心を鎮めるためではないだろう。祈るとは本来、大いなるものに自己の願いを伝えることではなく、人が大いなるものの「声」を聴くことであることが、こうした素朴な行為によって明らかにされているのではないだろうか。
耳を開いてみるがよい、とゲーテは促す。だが、耳を開くことはできない。ここでの「耳」は感覚器官の呼称ではない。聴く営みが生起するとき、人間は全身が「耳」になる。そうした「耳」を持つ者に、自然は隠すことなくその「声」を響かせる。自然にむかって自己を開いた者には、自然の「声」は、沈黙の中で、しかし、雄弁に語りかける。
しかし、世の中には、耳ではなく、手で自然の「声」を聴くと語る者がいる。(pp.95-96)
そして、染色作家の志村ふくみの話が始まる。

ところで、


植物にもっとも多く見られる色である緑だが、この色を植物から引き出し、糸に染め出すことはできない。緑だけでなく、肉眼で植物に見られる色を染め出すことが難しい。桜色は桜の花びらからではなく、花が咲く前の枝や樹皮から生まれる。緑色の糸を作るには刈安などから作った黄金の糸を藍に掛け合わせなくてはならない。
黄色の染料の元になる植物は皆、燦々と太陽の光を浴びて育った植物である。志村は黄色を「光に最も近い」色だと書いている。一方、藍の染料は甕で発酵させながら建てる。藍の染料は、作るとは言わない。昔から藍は、「建てる」という。(pp.107-108)
ここで、中村雄二郎『共通感覚論』*3もマークしておく。