新約/旧約(小川国夫)

宗教論争

宗教論争

吉本隆明、小川国夫「新共同訳聖書を読む」*1(『宗教論争』、pp. 155-191)から。
小川国夫の発言。


小川 (前略)旧約があって、それからキリストの生涯というのがあるわけだけども、キリストの生涯が旧約を預言書として立ち上がらせるわけですね。キリスト教というのはそういう見方なんですよ。
吉本 はあー。
小川 イザヤがこれを歌った瞬間が、キリストが三十年の生涯で味わった一瞬と、まさに全く同じだということですね。ことに詩篇に関しては、その意味の一致が出てくるわけですがね。それを預言だというんです。イザヤも詩篇もキリストを預言していたということになりますね。
ところが僕の見方では、預言と言われちゃうと非常に難しくなるけれど、たとえば、芭蕉西行にとことん入れ上げたでしょう。そうすると、西行が旅の一瞬で味わったような、同じ瞬間を芭蕉が味わったことがあるというのは考えられますね。そうすると、イザヤ書詩篇がキリストを示唆している預言だというよりも、逆にキリストがイザヤ書詩篇に入れ上げた構図としても読める、そういう考えをもっているんです。
吉本 なるほどね。
小川 で、イザヤ書的な人物、詩篇的な人物に、なろうとしてなったわけじゃないけども、気がついたらなっちゃってたという。日本的な理解だったらそういうものだと思うんです。(pp.180-181)