知性・身体性・テクスト(メモ)

「テキストに知性があるかないかを見分ける10のポイント」というエントリー*1がすごく注目を集めていたようだ。まあ、このようなものには注目しないのが「知性」的な所作であるとはいえるのだが、そもそも言葉を綴り・テクストを織り上げるということが「知性」の機能であり、そうした所作の効果である「テキスト」に「知性」が「ない」ということはないのであり、問題にするとしたら、その「知性」が洗練されたものなのか粗野なものなのか、善良なものなのか邪悪なものなのか等々であろうとは思う。
その中に、「身体性があるかないか」というのがある。別に(中身としては)〈間違った〉ことを言っているわけではないのだが、どうでもいいことだ。特にテクストと身体性についての的確で美しいパッセージ*2を読んでしまった後では。勿論、


いずれにしても、「体験」だの、「身体性」だの、説明できないものを根拠にしているという共通点が気になります。日本人が大好きな「まごころ」ですか。こういった「悪魔のささやき」には気をつけたいものです。
http://muroyanei.blogspot.com/2008/09/blog-post_24.html
という批判的評価を引用しておくことは無意味ではない。
ここで、「身体性がある」テクストって何だと考える。そもそもテクストっていうのは腕や指先の身体的運動の効果・痕跡であり、その意味ではどんなテクストにも「身体性」はあることになる。また、その生成には脳という身体器官による思考も関わっている。その一方で、テクストは「身体性」から切断されても、さらにその著者の死後も余生を生きる。結局「身体性」がありありと現前しているテクストということで思いついたのは、エスノメソドロジー/会話分析で使われるトランスクリプション。トランスクリプションのようにエクリチュールすれば、「身体性がある」テクストが織り上げられるかも。それは多分(エクリチュールの時間的構造のために)不可能なのだろうけど、もしあるとすれば、読者は飛躍や滞留も含む思考のプロセスだけでなく、嚔や咳き込み、煙草を吸う音や珈琲を啜る音、歯軋りや貧乏揺すりも含めた〈書く〉という振る舞いに(あくまでも事後的な再現とはいえ)立ち会うことになるだろう。これこそ、「身体性がある」テクストだ。