漢族の起源(メモ)

張海洋「不断漂移的漢族」『中国国家地理』2010年8月号、pp.94-104


少しメモ。
中国語において「漢族」という単語(概念)が出現したのは比較的新しい。19世紀末にに西洋のナショナリズム(「民族主義」)が日本経由で伝来して以降である。「漢族」という語の最も早い使用例だとされているのは、陸皓東の『就義供詞』(1895)の中の「蓋務求驚醒黄魂、光復漢族」という句(p.96)。さらに、唐才常『各国政教公理総論』(1897)の(成吉思汗)「子若孫擾中原、以奴漢族」という表現(ibid.)。しかし、中国において最初に「民族」という語が使用されたのは、梁啓超の日本紹介本である『東籍月旦』においてであり、そこに「漢族」とか「蒙古族」という語が出てくる。梁啓超は「中国最早系統地闡述西方民族主義理論、准確理解“漢族”的族称含義、並自覚地、経常地応用的人」ということになる(pp.96-98)。
「漢族」という表現が一斉に花開くのは1903年(p.98)。
鄒容『革命軍』――「中国華夏、蛮夷戎狄、是非我皇漢民族嫡親同胞区分人種之大経乎?」
章太炎「駁康有為書」――「漢族之仇満洲、則当仇其全部」*1
蔡元培『釈仇満』――「吾国人一皆漢族而已、烏有所謂“満洲人”者哉!」
劉師培『黄帝経年論』――「欲保漢族之生存、必以尊黄帝為急。黄帝者、漢族之黄帝也、以之紀年、可以発漢族民族之感覚」
孫中山『敬告同郷書』――「四万万漢族之可興、則宜大倡革命、毋保皇」
「漢族」が制度化されたのは中華民国の「五族協和」における「漢満蒙回蔵」のひとつとして。しかし、ここでは例えばエヴェンキやオロチョンなどのトゥングース系諸族は「満」に組み入れられており、また南方の少数民族の多くは「漢」に組み入れられていた。結局、現在一般に理解されている意味での「漢族」が確定するのは、中華人民共和国建国後の「民族識別」によってであるという(ibid.)。

現代では「漢族」と略同義語として使われている「漢人」という言葉は古くから使われてきた。漢代において「漢人」という表現が登場したが、「漢人」とは「漢王朝統治之下的人民」という「国籍」に近い意味しか有していなかった。「漢人」がエスニックな意味を帯び始めるのは南北朝時代。しかし、征服された魏人や晋人に対する「蔑称」としてであって、漢人が「漢人」と自称することはなかった。さらに、元朝における人民の区分としての「漢人」は(現在の)「漢族」の先祖のほかに契丹人、女真族(後の満洲族)、朝鮮人を含んでいた。「漢人」が(現在の)「漢族」に近づくのは清朝になってからである(p.99)。

「中華」という観念の起源でもある「華夏」という観念は既に春秋戦国時代には成立していたが、「文明的範疇」であって「人群的劃分」ではなかった。楚は「華夏」に入るとは見做されていなかった*2。秦もまた同様。ただ、漢朝は楚の文化を継承している(pp.98-99)。多分、高祖・劉邦のライヴァル項羽を通して。

「漢族」は「在国家與少数民族的不断相互作用下形成的」である(p.100)。
「漢族」にはこれが漢族だ! という客観的な文化的指標がない(p.102)。「漢族也是有很多独特文化的、但是這些文化都是地方性的、局部性的、而並非11億漢人共有的」(p.103)。「漢語」や「漢字」でさえも起源的・歴史的に見て「漢族」の指標であるとはいえない(pp.103-104)。

*1:岩波文庫の『章炳麟集』に入っていたか。

章炳麟集―清末の民族革命思想 (岩波文庫)

章炳麟集―清末の民族革命思想 (岩波文庫)

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071031/1193844137 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100113/1263357673