開封猶太人

小岸昭「開封ユダヤ人、一千年の記憶」『図書』710, pp.23-26


小岸氏が「ミュンヒェンユダヤ文献専門店」で購入したという『開封ユダヤ人――黄河南岸の中国系ユダヤ人』という(多分独逸語であろう)本に、北宋時代に波斯出身のユダヤ人が定住したときの(多分、漢文→独逸語→日本語と訳されたであろう)皇帝の言葉――「汝らが我が支那に来たからには、汝らの先祖の習慣を尊崇・遵守し、ここ汴梁(開封)にてそれを子々孫々に伝えよ」(p.23)。
また、開封の石碑には、


ユダヤ人が時の皇帝から賜った漢族名として、今日に残る石・高・艾・李・張・趙・金の七姓八家(内李姓は二家)を含む十七の姓がはっきり記されている。このように「趙」や「金」を名乗るに至ったユダヤ人は開封に定住し、南宋孝帝の隆興元年(一一六三年)に最初のシナゴーグを建立し、先祖伝来の食事規定や割礼の掟を守り、「阿無羅漢(アブラハム)」を立教の祖師として、また「乜攝(モーゼ)」を正教の祖師として崇めながら、ユダヤ人としてのアイデンティティを保持し続けてきたのである。あるいは立場を変えて言えば、このような文化融合と自己同一性の保持を彼ら越境者に可能にしたのは、異民族に対する中国の伝統的な「一視同仁」政策、すなわち少数民族の特性を受け入れてきた歴代の中国統治者の寛容の精神にほかならなかった。だからこそ開封ユダヤ人も、労を惜しまず孔子孟子に取り組みさえすれば、あるいは科挙の制度に従いさえすれば、漢民族と同じように高い官吏の地位と権力を獲得することが出来た。つまり、経済的・政治的・文化的な差別を受け、つねに不平等な状況に置かれていたヨーロッパのユダヤ人とは異なり、開封ユダヤ人は「中華民族というひとつの家」(上海ユダヤ研究センター主任・潘光)に家族の一員として住み続けてきたのであった。(pp.24-25)
開封ユダヤ人コミュニティが急速に衰退するのは19世紀である。その前半に「最後のラビ」が死去し、1849年の黄河の氾濫で壊滅的な打撃を受けた。その後、聖典や祈祷書や年代記や石碑は次々に異教徒に売却されていき、遂に1912年にはシナゴーグの敷地が英国国教会に売却されてしまった(p.25)。
現在開封ユダヤ人の末裔は618人いるが、その多くが開封を離れ、新疆、蘭州、西安成都、上海、南京、深圳等に散っているという(p.26)。小岸氏は1999年にフィンランド経由でイスラエルに移住し、遂に2005年にイスラエル市民権を獲得した人、また「正規に[イスラエルの]バル・イラン大学で学んだ後開封に帰って来た石磊」のような「自分たちがまず中国人であるという前提の下に、今では完全に失ってしまったユダヤの伝統を取り戻そうとする人々」を紹介する(ibid.)――「私が今日この中国内陸のディアスポラの中に見出すのは、イスラエル移住を目指すにしろ開封にとどまるにしろ、初めてヘブライ語に挑戦し、歴史の記憶を手繰り寄せようとする開封ユダヤ人末裔の新たな胎動である」。
ところで、ユダヤ教シナゴーグは「清真寺」といわれていたようだが、通常この語はイスラームのモスクを指す。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080604/1212521643