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先ず、因果関係というか、説明項と被説明項がひっくり返っている。レヴィ=ストロースは「女の交換」を説明するために「近親相姦の禁止 」(インセスト・タブー)という原因を持ち出しているのではない。その逆に、広く見られるインセスト・タブーという規範の存在理由についての通俗的な説明、例えば優生学的な配慮に疑問を呈する中で、「女の交換」(外婚制)という〈目的〉を見出したといっていいだろう。性行為と制度としての婚姻は別物だということはあるのだが、それはスルーするとして、「近親相姦の禁止」は女性の〈自家消費〉の禁止である。つまり、それによって、女性は外部から調達しなければいけなくなる。「近親相姦の禁止」は親族集団を、通婚関係の構築を通じて、他の親族集団、社会へと開くことになる。
この「女の交換」は、近親相姦の禁止というタブーを守るためというのがレヴィ=ストロースの説明です。ですが、実は私は、以前からその説明にはどこか釈然としないものを感じていました。近親相姦の禁止のタブーは人類普遍的な原則であることは間違いないでしょう。そこに異を挟むつもりは毛頭ない。ただ、そういった「禁止」だけ、つまり消極的な理由だけで女性を贈与するというのがどうも感覚的にしっくりと来ない。
さて、
というような生温い話ではない。モース(「贈与論」)はモノには贈与を促すチカラが備わっていると考えた。所謂マナ。さらに、デリダは贈与というのはその力によって実は不可能であり、せいぜい可能なのは〈時間を−贈与する(donner-le temp)〉ことくらいであると論じた。贈与という出来事は社会関係、交換のネットワークを揺るがす大きなショックを与える。そのチカラ、ショック故に贈与はすぐさま否定される。どのようにして? お返しということによって。贈与を交換に還元する力が働くことによって。贈与のショックは負い目、負債を負っているという感じとして、相手には現れる。本来贈与には値段はつけられない。定義上、贈与は無料だからである。しかし、諺に言うとおり、只より高いものはない。贈与のショックを受けて、お返しは何にしようかしらと考えているとき、既に贈与は交換に還元されている。等価なお返しを考えるということで、値段がつけられない筈の贈与に値段が付けられているのだから。逆に考えれば、交換の連鎖すなわち経済を作動させているのは贈与の暴力的な一撃(の残響)だということになる。支払いとお祓いの関係も考えてみなければならない。贈与の暴力性の緩和としての交換、取引への移行ということに関しては、取り敢えず斎藤慶典『デリダ なぜ「脱‐構築」は正義なのか』を参照のこと。
贈与とは、つまるところ It's my pleasure です。それはわが喜び。積極的なんです。人間は、自らの大切な者に与える喜びを獲得するために労苦を厭わない。それは、原始社会であろうが現代社会であろうが変わらないように思えます。
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デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
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