書物としての宗教(補足)

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091117/p1


小沢一郎の宗教に関する発言を巡って;


「西洋文明は行き詰まってる、これからは東洋(日本)文明」的な夜郎自大は「近代の超克」論にも、日本でのポスト・モダンの流行にも伴っていたのではないか。

それから「あらゆるものを受け入れ」というのを無批判に肯定しているのも気になる。この点に関する丸山眞男の問題提起はいまでも意味をもっていると私は思う。

最初の段落に関しては、〈ポストモダン〉或いは〈ニューアカ〉といわれた現象内部での浅田彰中沢新一の対立、浅田彰の〈マンダラをぶち破れ〉という批判をマークしておく。因みに、1980年代後半に中沢氏は急速に梅原猛に接近した。そういえば、中沢、梅原、そして吉本隆明の共著『日本人は思想したか』も出ていた。さらに後の話だけれども。
日本人は思想したか (新潮文庫)

日本人は思想したか (新潮文庫)

後段は丸山眞男『日本の思想』でいうところの、所謂〈無限包容〉的な精神風土の問題。但し、如何なるかたちにせよ、如何なる目的にせよ、リジッドな〈日本〉像を本質主義的に構築してしまうこと自体が問題にされなければならないだろう*2。そのように構築してしまうことによる〈予言の自己実現〉という効果。また、「あらゆるものを受け入れ」に関しては、鎌倉仏教、特に法然親鸞日蓮という例外を示すことはできるのだ。
日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

ところで、小沢一郎の例の発言だが、その内容がアレなこと以前に、その前提としての宗教観に関して、彼はやはり、というか結局近代人(インテリ)なんだと思った。彼の宗教観というのは、基督教的伝統(或いはもっと広義に、アブラハム的伝統)においても近代になって出現した宗教=「聖なるテクスト」=「聖なる百科事典」(Karen Armstrong)*3というものだ。様々な宗教における〈原理主義者〉たちもそのような宗教観を共有している。勿論、「聖なるテクスト」が基督教、或いは仏教においても重要な要素であることは間違いないのだが、それだけでなく、どの宗教においても、宗教というのはもっと外面的なこと、つまり儀礼的実践(ritual practice*4)、つまり行として現れるし、一部の学僧や学者を除けば、そちらの側面の方が強いともいえる。しかし、近代化というかリテラシーの大衆化の結果、宗教=「聖なるテクスト」という宗教観も大衆化してしまった。とはいえ、小沢一郎も含めて、多くの人にとっては宗教=「聖なるテクスト」(の通俗的解説本)ではあるが。宗教=「聖なるテクスト」という宗教観は、外面(現象)よりも内面(本質)という発想と平仄を合わせている。その意味では、小沢一郎もそこらの非モテ野郎どももビン・ラディンも近代的かつマッチョだということはいえる。
そもそも仏教は〈空の思想〉によって自らの言葉の中にビルトインしているわけだが、仏教の中でも〈行の宗教〉という性質が最も強い真言宗に向かって、あの発言をしてしまったことが痛いといえば痛い。