じゃれる


リアルの濃度ということに思いをはせる。

現前性、そこに身体があるということの強度を思う。

身体があるからさわれるんではなくて、さわれたら、そこに身体があるということ。

さわれなければ、そこには身体はないということ。

アイドルはなかなかさわれないから身体性が希薄なのだ。

ベタベタさわれるようじゃアイドルじゃない。

かろうじて手と手が触れ合うのみだ。

だから相対的にはやはり軽い。

身体が希薄だということは、その対象の重みを引き受けないということだ。

それに対して、現実に身体をべったり触れる行為は、その対象の重量を抱えることだ。

その重さを耐えうるか。しかしその重さこそが圧倒的なリアルとして立ち現れる。

恋愛の濃密さから、リアルを学ぶ。
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080912/1221179128

「リアルの濃度」ということは、私の感覚が全開になるということでもある。嗅覚も触覚も味覚も皮膚感覚も。それによって、私にもたらされる感覚情報(sense data)は一挙に増大する。
さて、これを読んで、あの「彼女が欲しい」問題*1に対して別様な視点がありうることに気づく。それだと、所謂恋愛への欲望とはちょっと違う。犬や猫や熊猫がじゃれ合うようにじゃれることへの欲望。それによって、私の感覚が全開状態で外に晒されることへの欲望。勿論、私たちの社会において、じゃれることが許される他者は限定されている。
しかし、多分それは違うのだろう。少し前に、

ここでいう「二次元」の世界にある感覚というのは視覚とあとはせいぜい聴覚だけなのではないか。セクシュアリティも含めて、リアルな人間と関わる場合、私が快楽を(或いは不快を)感じるのは、視覚や聴覚によってのみではない。そこには、皮膚感覚や触覚や嗅覚や味覚も関わっている。「二次元」ではそうした感覚は「ノイズ」として除去されてしまうわけだろうが、その世界って、伝統的に哲学者たちが憧れてきたイデア界に限りなく近いんじゃないか。まあ、ここで「これはひどい観念論者ですね」といってもいいのだが、それよりも「二次元」の快楽がさまざまな感覚を削ぎ落とした上で存立していることを、特に当事者はどう捉えているのかということを問いたい。また、女子文化が触覚や味覚などの多くの感覚を包摂する仕方で展開しているのに対して、男子文化(の一部)はそれらを排除する仕方で展開しているというのは、ジェンダー論的に言ってどうなのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080715/1216139452
と書いた。