「自己承認」としての

えるあき「セックスで愛情を感じる人をあなたは「ヤリマン」「ビッチ」と呼ぶのですか。そうですか。」https://www.huffingtonpost.jp/elleaki/sex-201805_a_23430313/


この人は、「昔」、


えるあき
@elleaki1990


子どもって「素直さ」のかたまりで「肌のふれあい」が愛情だと認識する。それってぶっちゃけ大人になっても変わらないものだと私は思うので、愛情を感じるためにセックスをする人を「ヤリマン」とか「ビッチ」なんて言葉で表現するのは違うと思う。

17:51 - 15 May 2017
https://twitter.com/elleaki1990/status/864055505693454340

と呟いた。
また曰く、

セックスについてよく考える。

旦那とのセックス、毎回乗り気でいるワケでもなく、億劫に感じることもある。でも、わたしは「愛情」の9割をセックスで感じてる。

でも、これはたんに挿入の問題ではないようだ。この方は、「自分が気持ちよくなることはさておき、相手がイくことで心が満たされる」とも言っているのだが。男性である私にとっては、挿入される快楽というのは理解の範囲を超えているのだが*1、(男性にとっては)挿入による摩擦の快楽を得るためには別にセックスする必要はない。要するに、狭い穴があればいいのだ。
この人にとって、重要なのは、抱く‐抱かれる、触る‐触られるという関係であって、狭義のセックスというのはそのヴァリエーションの一つなのだということになる。

母はいつだって抱きしめてくれた。叱ったあとは私を強く抱きしめ「でも、大好きだよ」と囁いてくれた。

友人たちもいつだって抱きしめてくれた。「はいはい、大丈夫」なんて言いながら。

だから私のなかで触れ合いは「自己承認」。

セックスは肌と肌がこれでもかと重なる。人の身体の一部が自分の身体の中に入ってくる。物理的も精神的にも満たされる瞬間が続く。

こんなに幸せなことなんて他にはない。

毎日セックスしなくてもいい。でも、毎日私に触れてほしい。

だから、寝る前は旦那にお腹を触ってもらうようにお願いする。おしりを触ってもらうようにお願いする。

それだけで幸せな気持ちで1日が終わる。

「触」ということに関して、山口創『愛撫・人の心に触れる力』*2から、メモしておく。

まず、身体接触には、働きかける主体としての相(能動の相)と、働きかけられる対象としての相(受動の相)という二重の相がある。このことを、身体を軸に哲学的な考察をしたフランスの哲学者メルロ=ポンティは「二重感覚(sensations doubles)」とよんだ*3。彼は「触れる」という行為は、(相手に触れるにしても自分に触れるにしても)同時に「触れられる」ことになるのであり、これらが交互に交代するような曖昧な感覚をもたらすと述べている。この特質から、自他の融合感覚が生まれることになる。対象と私を隔てる自他の境界感覚が一時的に解除されるのだ。
しかし他方では、境界としての皮膚は自己を対象から区別するどうしようもない「隔たり」の感覚も同時に意識させることになる。心も身体も分け隔てなく一体化したい恋人どうしは、身体を接触させることで皮肉なことに「隔たり感」を一層鮮明に感じることになるだろう。母親と一体化したい乳児にとっても同じである。(pp.16-17)

次に、触れるという触感覚の特徴は、触れる対象と触れる身体がそこに同時に実在するという「同時性」と「実在性」にある。見たり聞いたりすることとは違って、「今、ここで」両者が同時に実在しなければ成り立たない感覚である。ここから「直接性」という性質が現れ、「肌で感じる」「皮膚感覚で捉える」といった表現が生まれた。だから触感覚は、視覚や聴覚のあり方を基礎づける「根源的感覚」でであって、視覚や聴覚と並列的に論じることはできないのである。「味覚」や「嗅覚」も舌や鼻に対象が触れなければ生じない感覚である点で、触覚の一種であるとも考えられる。(p.17)
愛撫・人の心に触れる力 (NHKブックス)

愛撫・人の心に触れる力 (NHKブックス)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180419/1524096662

*2:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090609/1244553780

*3:『知覚の現象学I』

知覚の現象学 1

知覚の現象学 1