「外国語の詩」を巡って(大江、古井)

辻 (新潮文庫)

辻 (新潮文庫)

古井由吉『辻』*1の巻末に収録された、古井氏と大江健三郎との対談「詩を読む、時を眺める」(pp.321-366)から抜書き。


大江 [古井さんは]小説を書き始める前に、ドイツ文学者として金沢大学や立教大学で教えたり、ヘルマン・ブロッホの『誘惑者』やロベルト・ムージルの『愛の完成、静かなヴェロニカの誘惑』の翻訳をされたりした。日本の優秀な外国文学研究の伝統の中で勉強されたので、本の読み方が玄人になっている。とくに詩の読み方がはっきり違っている。それに比べると、私は結局、本の読み方の玄人になることができなかった。外国語の本は毎日のように読みますけれど、私には散文しかわからない。一番よくわかるのがサイードチョムスキーが書いた論文で、次が小説で、自分には外国語の詩が根本的にわからないところがあるのを実感します。そこで、具体的に私は詩を翻訳できません。
(後略)(pp.321-322)
「一番よくわかるのがサイードチョムスキーが書いた論文で、次が小説で、自分には外国語の詩が根本的にわからないところがあるのを実感します」とか言われると、大江健三郎にすごく親しみを感じてしまう。
それに対して、古井氏は次のようにいう;

外国文学研究者になって十年目にもなると、「これだけやっても自分には外国語が読めない」と絶望する時期があります。とくに絶望を誘うのが詩なんですね。振り返ると僕もちょうど十年ぐらいで大学をやめていた。
なぜ外国詩がわからないのか。まず第一には、単純に文化体系や言語体系が違う国の人間が読んでも、そのよさが伝わりにくい。第二に、音韻がつかみにくい。詩ですから意味を音韻に乗せて展開させるわけですが、外国の詩だとそれがつかめない。その証拠に、いいと思って、さて暗唱しようとするとできないことが多いのです。第三に、外国語の詩を読むというのは「行為」なんです。ある瞬間だけに成立する運動行為なので、それなりに感動したとしても、本をパタっと閉じると言葉が頭の中で散ってしまう。『詩への小路』の中でも、訳した後に自分の訳文を読むと原文の呼吸がわからなくなったりしました。それにまた、小説家が詩を読むとなると、小説家としての呼吸というものがあって、とかく詩の波長とすこしずつずれる。小説家が詩を読むこと自体の難しさもあるのだと思います。いずれにしても僕も同じで外国語の詩は難しい。(pp.322-323)
詩的言語については、例えばhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060816/1155708186 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070503/1178193559 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080105/1199511204 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081216/1229430768 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090706/1246906032 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090707/1246985332 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100221/1266732813 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100226/1267115264 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111025/1319507617 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150306/1425575872も。