法についてちょっとメモ

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071018/1192728137に対してなんばさんからコメントを頂いたので*1、それに答えるというわけではなく、ちょっとメモ書き。
法は(あらゆる言語表現と同様に)区別(線引き)をするものである。また、法による区別は(あらゆる区別と同様に)(少なくとも究極的には)恣意的*2である。さらに、その線引きをする法が正義とは違って、一般性や普遍性に関わっていることをいうのに、わざわざデリダ先生の『法の力』を持ち出すまでもないだろう。議論になっていることに引き付ければ、例えば18歳以上だと経験的に自己決定能力があるから法的に自己決定能力が認められるのではなく、人それぞれを無視して、18歳以上は自己決定能力があると画一的・一般的に法的に見做されるということである。恣意的とはいっても、それが現実と全く乖離しているというわけではないだろう。社会行為は役割行為であるが、役割は期待=予期(expectation)という仕方で存在している。法的に自己決定能力があると見做されることによって、自己決定能力がある人として振る舞うという期待=予期が生まれ、それによって実際に自己決定能力がある人として振る舞うようになるということは大いに考えられる。また、法的区別があまりにアレな場合はcommonsenseによって拒絶されるだろう。例えば、6歳の子どもに自己決定能力を認めるというのは越後獅子の親方でもしないだろう*3
何れにせよ、法的区別というのは主にリスク論的準位に関わることであって、君子は常に法に依拠することなく判断しなければいけないということはいうまでもない。

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

*1:http://d.hatena.ne.jp/rna/20071020/p1

*2:ソシュール以来、arbitrary(恣意的)が習慣的に用いられているが、英語や仏語における通常の用法からしても、この言葉は誤解を招きやすい。だから、はっきりと無根拠(groundless)といってしまった方がいいのかも知れない。

*3:越後獅子の親方という喩えは、丸谷才一先生がどこかで使っていたのをぱくった。