「イニシエーション」問題

「呪い」を解く (文春文庫)

「呪い」を解く (文春文庫)

昨年の終わりに、偶々オウム真理教或いは麻原彰晃の問題について言及したのだが*1、この問題については、「麻原は、ヨガの先生としては大したもので、なにがしかカンの鋭いところもあり、ヨガの指導をされながら、時々おもしろいはなしを聞かされると、ファンになってしまう人が出るのはわかるのですが」(id:nsssko)ということも含めて、鎌田東二『「呪い」を解く』*2の一読をお薦め。鎌田さんも充分に妖しい人なのだけど、そのくらいの妖しさがなければオウムや麻原に太刀打ちできないというのもまた事実だろう。
本のメインのラインからは少し外れた箇所をメモしておく;


麻原は、”イニシエーション”なき戦後社会の精神の空洞化と空隙を縫って、「最終解脱者」という人間完成の最高モデルを提示し、そこに至る階梯と修行法を明示した。そしてそれを世界救済計画と結びつけることによって、現実社会に適応できず、そこにおける矛盾や悪に嫌悪や反感を抱く若者の心を捉えた。その「修行」や「日本シャンバラ化計画」は、理想を失い、人格完成のモデルを持たない、生き甲斐も自己の存在理由や存在価値も見出せない若者の心を惹きつけた。
この麻原の宣教活動や布教計画は、「自己否定」や「自己批判」に明け暮れて「体制破壊」に過激にのめり込んだ全共闘運動や新左翼運動の挫折の後のアパシー(無気力)状況に確実に響き、反応を引き出した。それは。「自己否定」から「自己肯定」へと「自分探し」に向かう若者の精神世界に一瞬光明をもたらすように映ったのだ。それはまったく錯覚だったのだけれども。
この「教祖化」や「カリスマ化」の恐ろしさと問題点を見抜き、「妄想」と「真理」の境界を柔軟に往来できる知性と慈悲心を育てなければ、世界に、妄想的な正義感に基づく残虐な暴力と戦争とテロリズムが止むことはないだろう。(p.11)

わたしは、麻原彰晃オウム真理教が突きつけた「イニシエーション」の問題は、現代社会にとって決定的に重要な問題であったと思っている。確かに、多くの若者がオウム真理教に引き込まれた理由は、超能力の獲得というマッチョ的な願望もあったであろうが、それ以上に、オウム真理教ほど明確にイニシエーションの重要性を訴えかけた教団はなかったことが教勢拡大の最大の原因だったと思う。麻原は、「超能力」の獲得から「解脱」に至るプロセスを「イニシエーション」の全体構造の中に位置づけ、実に巧みにチャート的なわかりやすさをもって、誘惑的に進化ステージのプログラムを開示したのである。
実際、戦後日本社会に決定的に欠落していたのは、このイニシエーションの問題だった。子どもが大人になるということ、そして一個の人格が理想的な形態に向上・成長し、返信・変容していくことについて、戦後社会は完全にモデルと方法を喪失し、”イニシエーションなき社会”になってしまったのだ。
オウム真理教は、この”イニシエーションなき社会”の中で間隙を縫って、唯一明確に、”イニシエーション”の可能性と重要を説き、良くも悪しくも、すべての価値が相対化されつつある時代の中で、最高の理想型としての「最終解脱者」のモデルを提示したのである。そしてそれが可能になる「修行」のプロセスとそれに至る「データ」処理の仕方を明示し、「解脱」への道を疑似科学的にアピールした。また、生存の意味と価値、生と死、また生死を超える世界観を説いた。道を求める若者に麻原が魅力的に映ったのは、間違いなくそれが実効性のある言説とプログラムだと感じとれ、麻原はその体現者であると思えたからであろう。(pp.11-12)