法と歴史(証言)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071024/1193204480で「法」についてメモ書きしたので、それに絡んでというわけでもないが、また少しメモ書き。

市村弘正杉田敦『社会の喪失』から。

杉田 私が以前から気がかりなのは、証言といっても、歴史として記録するということと、法廷に持ち出して証拠として採用する、といったことは、違うレベルの話ではないかという点です。法というのは、物事を決着させるためのものです。さまざまな見方があるなかで、さまざまな見方があるなかで、ある一つの説明を正しいものとして定着させてしまう。一度決着すれば、一事不再理になって、もう蒸し返すことはできない。それに対して、(略)歴史は複数あり、何か一つの歴史に決着することはない。
市村 そうです。「歴史の証人」といった言い方をしても、それは法廷言語での証人とは全く違います。歴史における証言は、多様な解釈可能性を含んでしまいます。しかも、「パロール」であれば、訊く相手、訊き方によっても、その内容はゆれますね。裁判所では、空白や沈黙は証言たりえないでしょう。しかし、歴史の証人の場合には、空白や沈黙が非常に重い場合がありますね。語れないほどひどかった。あるいは、語れないのは何かを忘れたがっているからだ。いろいろな解釈が可能です。一方、裁判では、沈黙の意味を推し量って裁判官が量刑を判断するなどということはありえない。言語のレベルが全然違うと思います。
(略)(pp.200-201)
さらに、杉田敦氏は「法的な枠組みを持ち込む人たちのなかには、法というものの暴力性に疎いがゆえに、法に対して過剰な期待を抱いている人もいる気がします」(p.201)と付け加える。
先ずは法そのものと制度(システム)としての司法は区別しておいた方がいいのではないかとも思う。そして、ここで問題になっているのはどちらかといえば後者に関してであろう。法はenforcementを伴うという意味で「暴力性」を有している。しかし、より重要なのは法に対しては、たかが法というスタンスを堅持するということだろう。というのも、法的な文脈における〈真理〉(或いは〈虚偽〉)というのはあくまでも取引可能なものにすぎないからだ。司法取引という言葉もあるが。裁判における「証言」(或いは尋問)は当事者が裁判官や陪審の気を引こうとするためのプレゼンテーションにすぎない。それらは、弁護側や検察側が自らの利害により適った判決や量刑を勝ち取るという目標に従属したものにすぎない。