「随意的雇用」(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071027/1193510497 の続きかも知れない。
赤木智弘氏を「ネット右翼」と断ずる意見あり*1。その根拠とされているのはマイノリティ(被差別者)に対する彼の尋常ではない反撥である。そのレイベリングに加担するわけではないが、そこでマークされている彼の


我々弱者が最も憎むのは「不公平さ」です。
 弱者は「世の中が不公平だから、我々は弱者なのだ」と感じています。
 そして、その不公平がどこから来るのかといえば、政府の不公平な弱者救済策であると感じています。
 「我々がこれだけ苦しんでいるのに、我々の手には援助がまったく得られない。にもかかわらず、我々以外には援助を得ている人間がいる」と思っているわけです。
 ですから、我々が憎むものは「不公平な弱者救済を掲げる人間」と「不公平な弱者救済を受ける人間」です。
 「不平等な弱者救済を掲げる人間」とは、社民党共産党といった左翼です。
 「不公平な弱者救済を受ける人間」とは、エントリー先に書かれているような、公務員や農業従事者、さらには職業で言えば、箱物行政で利権を得る土方。そして私の意識で言えば、もはや差別などほとんど無きに等しいのに今だに非差別者(sic.)としての特権のみを得ている、女性や在日や部落。こうした人たちです。
 彼らが優先的に救済される社会においては、我々のような「新しい弱者」は弱者として認識されません。
 そのような不公平が我々にのしかかるからこそ、我々は右翼や小泉を支持してしまうのです。
 弱者にとって「不公平の是正」は「格差問題」よりもはるかに重要なことなのです。
http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/09/post_159.html
という発言を見てみる。これに対しては、

「特権」云々の発言を聞いていつも思うのは、本気でそう思っているのならば今後、「金」「朴」といった朝鮮人の名前で社会生活(就職・転職、部屋探しも含めて)を送ってみてはどうか。パジチョゴリ(男性用の朝鮮の民族衣装)を着て通学したり、街を歩いたりするようしてみてはどうか。公務員や参政権の国籍条項などに関しても、自分に対して在日朝鮮人と同じ境遇を設定してみてはどうか。自分で「自分は朝鮮人」とした前提で、ネット上の朝鮮人バッシングや『マンガ嫌韓流』の朝鮮人の醜悪な顔を見てはどうか。自分たちの子どもが日本の学校でいじめを受けて帰ってくるのを待ってはどうか(そうかといって朝鮮学校に通わせようとしても、いまだに法的地位は「各種学校」(そろばん学校や英会話学校と同じ)であるため、『嫌韓流』その他のデマとは異なり、国庫からの助成金はゼロ、地方自治体の助成金の額も、公立とは桁違いで、私立と比べても格段の差がある。民族教育を受ける権利が保障されていないのだ)。または、「自分は被差別部落出身者です」と「カミングアウト」しながら生活してみてはどうか。若者弱者問題は解決に向かうのではないか。
http://watashinim.exblog.jp/4373811/
と批判されている。これを書いているのは、「三世」の「在日朝鮮人」の人だが、この批判の正当さは言うまでもない。
さて、この赤木の発言を読んで思い出したのは、以前に読んだ塩原俊彦『ビジネス・エシックス』という本に米国企業における雇用関係について書かれた箇所があったことである。曰く、

米国には、伝統的に「随意的雇用」(Employment at will)という判例法が存在することをまず知らなければならない。これは、従業員が労組協定や公民政策ないし雇用契約において適用規定をもたない場合、経営者は従業員を理由の有無にかかわらずいつでも随意に解雇できるという原則を意味している。功利主義的に考えると、この「随意的雇用」は企業が効率性や生産性を最大化するために必要だということになる。もはや必要のない労働者を雇ったり、トラブル・メーカーを雇用しつづけたりすれば、企業全体の利益にとってマイナスになってしまう。(pp.76-77)
ビジネス・エシックス (講談社現代新書)

ビジネス・エシックス (講談社現代新書)

米国における労働組合の組織率の低下によって、「被用者の六割ほど」が「随意的雇用」にあるとされる(p.78)。ここで問題なのは、「公民政策」だろう。これは具体的には、「年齢差別禁止法」、「1964年公民権法」(通称「タイトル・セヴン」)、「障碍をもつ米国人法」などであるが、要するに対象がマイノリティの場合、企業(雇用者)側は、その解雇が差別的ではないこと、それぞれの属性が理由ではないことの説明責任が生じる。こうすると、ふつうの(中流階級を構成するであろう)マジョリティがいちばん割が合わないというか、最も無防備な立場に置かれてしまうことになる。このような状況において、マジョリティにマイノリティに対する差別的な態度が醸成されやすいということは想像に難くない。その意味で、赤木のマイノリティに対する反撥は、日本においても雇用の流動化(労働者の権利の剥奪)とマイノリティのノーマライゼーションが或る程度同時進行的に進めば、たんなるフリーターの正社員に対する妬みを超えて、さらに一般化するだろう(現にそうなっている)。
また、これに関しては、Skelita_vergberさんが引用する五十嵐さんのコメント、特に五十嵐さんがMixiから拾ってきた例*2も参照されたい。なお、「不公平」についての感覚に関しては、http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20071024#p3が興味深かった。