私を引き受ける


 1年前に書かれたテクストを読み返して、「いまの私ならこんなことは書かない」という時、作者は死んで、(それを読んだ数十、数百、数千の)読者だけが生まれる。そこで問われる「アイデンティティ」とはいったいなんなのか? 「本当の自分」なんてものを探す前に、そのことを考えたほうがよほど面白いな、と私は思う。
http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070410
というのを読んで、かなり以前に内田樹氏の言説を踏まえて、

 〈著者であること(authorship)〉は自分が実際に書いたかどうかということとは必ずしも関係しない。要は〈認知する〉ということなのである。自分の子どもを認知しない〈父親〉もいるだろうし、養子縁組という仕方で親権が帰属される場合もある。

 世の中には、数多の署名された文書が出回っている。その中の多くについて、署名した本人(つまり著者)が実際に書いたものではないということを私たちは自明なこととして了解している。例えば、〈タレント〉の著書の多くは実際には〈ゴースト・ライター〉によって書かれたものだろうし、(国を問わず)政治家の演説は実際には官僚の作文だったり、プロのスピーチ・ライターによって書かれたものだろう。また、ビジネスにおいては、〈長〉という肩書きのついた人名義で膨大な文書が日々発信されている。これらも〈長〉が自ら書いたのではなく、実際には部下が書いたものだ。これら実際には書いていない著者たちの存在意義は、先ず何よりも様々な〈責任者出せ!〉の宛先ということである。印税もそうした〈責任者出せ!〉のひとつの在り方にほかならない。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050706

と書いたことを思い出した。それを勘案するならば、「アイデンティティ」なるものは、その時点では「死んで」いて、その時点における「作者」(自分)とはまるっきり異なってしまっている「作者」(自分)を「作者」(自分)として引き受けることによって生起するといえるだろう。そもそも、(以前の)自分の死の認識を可能にしているのも、「作者」(自分)を「作者」(自分)として引き受けることではある。これは実はカート・ヴォネガットの『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』*1の主題でもあることに気づく。
ところで、〈著者であること(authorship)〉に関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070204/1170611496でも言及していたことを思い出す。