「三角坐り」/「体育坐り」

声が生まれる―聞く力・話す力 (中公新書)

声が生まれる―聞く力・話す力 (中公新書)

竹内敏晴*1『声が生まれる』から;


三角坐りについては別に書いたことがあるから詳しくは述べないが、一般に体育坐りと呼ばれることの多い、両膝を着けて立て両手で抱え込んで身を固める坐り方だ。もともと日本にはなかったと言っていい坐り方で、一九六〇年代に全国の公立小学校に広まったのだが、なんのためにこれを教えるのかと質問しても、答えることのできた教員にかつて一人も会ったことがない、という不思議な姿勢である。公式なものでないことは、初めの頃には三角坐り、お山坐り、トンネル坐りなど種々勝手な名が付けられていたことでもわかるが、わたしの知る限りここ二、三年急速に、どこでも体育坐りの名で呼ばれるようになってきている。このだれが進めているのかもわからぬ画一化がひたひたとひろがりつつあり、わたしは怖い気がする。
膝をそろえて抱えこんだまま息を入れてみれば、腹部は圧迫されて動かせないから、息は胸郭だけを持ち上げてしなければならない。かぼそい息しか入ってこない。三角坐りとは、手も足も出せず息さえひそめていなくてはならない、即ちあらゆる表現の可能性を封じこめてしまう姿勢なのだ。これを無自覚に子どもたちに強制しているのが日本の公立学校教育の公式に論議されることのない、学童のからだ操作の基盤になっている。
幼稚園から数えれば十五年ばかりもこの姿勢に馴じんだ若い人たち、特に女性には、こうしているのがいちばん落ち着くのですという人が少なくない。このまま立てば、話す時もおなかはペコン。胸は落ちこみ背は曲りっぱなしで、息が出入りしているとも見えない(もちろんこれは、勤める企業の上下関係における礼儀作法に始まる、さまざまな社会慣習に対するかの女の順応全体の姿なのだが、三角坐りがその基盤をなしている有様はまざまざと見て取れると思う)。(pp.29-30)
「体育坐り」については、内田樹氏の『寝ながら学べる構造主義』で読んだことがあったのだが、改めて見てみると、内田氏も竹内敏晴氏の『思想する「からだ」』という本を援用している(pp.104-106)。「別に書いたことがある」というのは『思想する「からだ」』のことか。内田氏の方から引用;

両手を組ませるのは「手遊び」させないためです。首も左右にうまく動きませんので、注意散漫になることを防止できます。胸部を強く圧迫し、深い呼吸ができないので、大きな声も出せません。(p.104)

生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体統御姿勢を考えた末に、教師たちはこの坐り方にたどりついたのです。しかし、もっと残酷なのは、自分の身体を自分の牢獄とし、自分の四肢を使って自分の体幹を緊縛し、呼吸を困難にするようなこの不自然な身体の使い方に、子どもたちがすぐに慣れてしまったということです。浅い呼吸、こわばった背中、痺れて何も感じなくなった手足、それを彼らは「ふつう」の状態であり、しばしば「楽な状態」だと思うようになるのです。
竹内によれば、戸外で生徒を坐らせる場合はこの姿勢を取らせるように学校に通達したのは文部省で、一九五八年のことだそうです。これは日本の戦後教育が行ったもっとも陰湿で残酷な「身体の政治技術」の行使の実例だと思います。(pp.105-106)
寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))