宗教と公共性

川瀬さんが


僕の靖国に関する考えはシンプルでして、要するに僕は靖国神社公式参拝賛成派)が主張するような靖国神社の「公共性」を認めていない、ということです。つまり、市民宗教、もしくは公共宗教としての靖国(もしくは神道)というのを認めないという立場です。「神道的でありつつ全国民的である」というのには、どこか無理を感じてしまいます。
http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20060721/p1#c1153742681
と書いている。
私は〈宗教〉が公共性を担うことができるのかどうか、もっと問われるべきだと思っている。私の暫定的な回答は否定的なもの。とはいっても、〈宗教〉を(もっとも私秘的な領野である)こころの問題に還元しろというわけではない*1
〈秘儀性〉というのは〈宗教〉の本質に関与している。〈秘儀性〉と公共性は明らかに矛盾する。〈宗教〉は公共的な視線から遮られることによってこそ護られるのであり、公共的な視線に曝されたら、その本質的な部分でダメージを受けてしまう。
結局のところ、(少なくとも)現代社会で公共性を担えるのは、政治であり、学術であり、アートであるということになるのだが、これらのものは(少なくとも)有用性や倫理道徳に還元されないことにおいて、超越に関わっている。超越に関わる限りで、〈宗教〉と接点を持つことになる。ここら辺の絡みについては、勿論未だ結論はない。

*1:前提として、屡々混同される共同性と公共性を区別すること。