靖国神社、そして葦津珍彦

『毎日』の記事なり;


靖国:「戦後」からどこへ/3 神道史大御所の論文 「A級合祀」に疑義

 A級戦犯合祀(ごうし)は78年10月、松平永芳宮司が人知れず敢行した。翌79年2月、神社新報編集長だった葦津(あしづ)泰国氏(69)は、意を決して松平宮司に面会を申し入れた。「職員が帰ってから来てくれ」と言われ、社務所応接室を訪れたのは夜だった。

 「問いただしたい。靖国神社が(世論の支持の下に)国家護持された暁に晴れて(A級戦犯を)合祀するというのが祭祀制度調査会の一致した考えだった。ご存じか」

 同調査会は、神社の国家護持を追求した宮司の諮問機関。61年に設立され、泰国氏の父で思想家の葦津珍彦(うずひこ)氏(92年に82歳で死去)は中心メンバーだった。A級戦犯合祀は委員たちも反対していたのに、松平宮司は相談もせず踏み切ったのだ。

 しかし、白い上衣に紫のはかま姿でソファに身を沈めた松平宮司は「国から名簿が来たら合祀する。それが筋だ」と譲らず、後は「筋だ、筋だ」と繰り返すばかり。泰国氏は父親にむなしく報告した。合祀を世間が知るところとなったのは、2カ月後のことだった。

 葦津珍彦氏は、在野の神道史研究の大御所で、神社本庁創設の中心人物。戦前は東条内閣批判のビラを国会議場でまいた。検挙もされた。戦後の61年、天皇制支持の寄稿が雑誌ごと廃棄処分された「思想の科学事件」の渦中の人でもある。

 調査会が設置されていたのは戦後十余年のころ。世間には戦争指導者への批判が渦巻いており、A級戦犯合祀は靖国批判に火をつけかねなかった。当時の宮司は、皇族出身の性格温和な筑波藤麿氏。珍彦氏は筑波宮司に代わり、総代会の最強硬派である青木一男・元大東亜相らを抑え、「国家護持が先だ」と説き伏せる役目を担っていた。

 筑波宮司の後任、松平宮司の「抜き打ち合祀」に対し、珍彦氏は79年7月、ある小雑誌に匿名で「信教自由と靖国神社/戦犯刑死者合祀の難問」と題する論文を載せ、この中で「国の公式命令による戦没者」に限定した「靖国合祀の条件」があると主張。「神社にせよメモリアル(国家施設)にせよ一定の限界を立てることは極めて大切だ。国に功のあった人を片端から祭れなどの俗論も聞くが、表敬者の心理集中を妨げる」と論じた。

 極東国際軍事裁判東京裁判)を否定し、A級戦犯の処刑も「戦死」であるとする考え方について「それならば東京、広島、長崎、旧満州(現中国東北部)はじめ外国軍に殺された一般市民が50万人以上もある。その『限界』はどうなるのか。悲惨な敗戦へとミスリードした責任者もある」と批判的見解を例示した。神道信仰や戦争責任を問う立場から、A級戦犯合祀に疑義をぶつけたのだ。

 現在、神社本庁で教学の理論的主柱にある阪本是丸・国学院大教授は、論文作成を手伝うなど珍彦氏直系の弟子だった。だが、阪本氏が執筆した本庁の05年見解は「合祀は国会と政府の措置に基づく。戦犯は犯罪者ではない」と主張。師の教えに背いている。阪本氏ら現役の神道学者たちは珍彦氏の主張を理論的に説明できない。毎日新聞の取材に、阪本氏はじっと考え込んで「先生のおっしゃる通りだ。でももう過去の人」と言った。

 神奈川県藤沢市在住の作家、山中恒氏(75)がこのほど発見した旧陸軍内部文書の写しによれば、合祀されたA級戦犯の一人、東条英機元首相自身が、靖国の合祀対象を「死没の原因が戦役勤務に直接起因」する軍人・軍属に限るよう指示していた。靖国神社の主張は、生前の本人の命令からも外れていることになる。

 95年12月、オウム真理教事件で再燃した宗教法人法改正に関する参院特別委での参考人質疑。神社本庁の岡本健治総長(当時)は「神社信仰には教義がない。(教義を宗教の要件とする法は)信仰への迫害でさえある」と言い放った。参考人として隣にいた洗建・駒沢大名誉教授(宗教学)は「自分たちだけは特別という意識」に強い違和感を感じたという。

 「このままでは神社界全体が靖国と一緒に沈みかねない」。珍彦氏に近かったある宮司は慨嘆する。しかも、靖国神社自身が30年越しの亀裂を内に抱えていた。=つづく

毎日新聞 2006年8月8日 東京朝刊
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/archive/news/2006/08/08/20060808ddm002040011000c.html

ここに出てくる葦津珍彦については、http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/ASHIDSU/によれば、

 葦津は明治42(1909)年、福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家の家系に生まれた。父耕次郎は熱烈な信仰家であったが、神職として一生を送らずに事業家となり、満州軍閥張作霖(ちょうさくりん)を説いて鉱山業を興し、あるいは工務店経営者となり、全国数百カ所の社寺を建設した。一方で、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神をまつることに強く抵抗し、韓国併合には猛反対、日華事変(日中戦争)勃発以後は日本軍占領地内の中国難民救済のために奔走した。

 珍彦はその長男で、はじめは左翼的青年であったが、父の姿を見て回心し、戦前は神社建築に携わる一方、俗に「右翼の総帥」といわれる玄洋社頭山満、当時随一といわれた神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆でのちに自由党総裁となる緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判した。

 敗戦を機に、「皇朝防衛、神社護持」への献身を決意し、神社本庁の設立、剣璽(けんじ)御動座復古、元号法制定などに中心的役割を果たした。昭和天皇が極東裁判に出廷する事態になれば特別弁護を買って出ようと準備していた、といわれる。昭和36年末の「思想の科学」事件の渦中の人でもある。著作は『神道日本民族論』『神国の民の心』『国家神道とは何だったのか』など50冊を超える。一介の野人を貫いて、平成4年春、82歳でこの世を去った。

とある*1。また、http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2006/02/post_a769.htmlも参照のこと。
ところで、

 95年12月、オウム真理教事件で再燃した宗教法人法改正に関する参院特別委での参考人質疑。神社本庁の岡本健治総長(当時)は「神社信仰には教義がない。(教義を宗教の要件とする法は)信仰への迫害でさえある」と言い放った。参考人として隣にいた洗建・駒沢大名誉教授(宗教学)は「自分たちだけは特別という意識」に強い違和感を感じたという。
という部分だが、「神社本庁」に共感してしまう。また、「「このままでは神社界全体が靖国と一緒に沈みかねない」。珍彦氏に近かったある宮司は慨嘆する」ということだが、現在神道では時流にも乗った、〈鎮守の杜〉をコアにしたエコロジー路線を打ち出しているのにね、という感じはある。また、〈コメ輸入自由化〉を阻止できなかったのは、政治的敗北である以上に、神道にとっては宗教的敗北だっただろう。
さて、〈非モテ〉が蔓延る→結婚が減る→神社経営が悪化する→〈国家神道〉への回帰願望が高まるというのは、妄想かな。しかし、葬式のマーケットはほぼ佛教が独占しているわけだし。また、少子化になれば、お宮参りや七五三の市場も縮小する。

*1:因みに、このサイト、「國語國字問題解説」http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/とか、「國語國字問題を知る爲の文獻資料」http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/bunken/とかの方も面白そう。