靖国或いは廃墟

靖国神社の経済学?」と題するBaatarismさんのテクスト*1。それは麻生太郎氏の文書を踏まえたものなのだが、その中で、


しかし戦後、独立した宗教法人となった結果、国家からの資金はなくなり、その代わり遺族や戦友からの寄付によって支えられるようになりました。遺族や戦友が靖国神社にまず求めたのは戦没者の慰霊であり、その結果、靖国神社は顕彰よりも慰霊を主要な目的とするようになったと思われます。現在の日本では、ほとんどの人が靖国神社の主要な目的は慰霊であると考えていると思います。小泉首相靖国神社に参拝する度に、慰霊目的であると発言するのも、そのような考えを反映してのことでしょう。

このように遺族や戦友によって支えられ、慰霊を中心とする靖国神社のあり方は、檀家に支えられる寺院のあり方に近いと言えます。

という一節は成る程なと思った。また、考えてみれば、現在イエ制度の衰退、過疎化、或いは(家墓に入るのは嫌だというような)死生観の変容によって、「檀家」制度に依拠する仏教寺院自体も、〈靖国的情況〉をある程度共有しているのではないだろうか。
Baatarismさんは、靖国神社の「宗教右派」、「一部の右派にだけ支持される宗教」という将来像を提示している。ところで、私の望む靖国神社は荒涼たる靖国神社である。誤解を避けるために申し上げると、それは必ずしも私が〈反靖国イデオロギーを持っているからではない。勿論そういうイデオロギーは持っているのだが、それと「荒涼たる靖国神社」というヴィジョンはあまり関係がない。端的に言って、それは美学的な理由である。散々批判的なことを喚き散らしているくせに、ある面では、自分は決定的に浪漫主義者だと思ってしまうことがある。それは〈廃墟〉への愛である。どこでも、廃墟を見ると、廃墟の儘で永遠にその姿を保って欲しいと祈らずにはいられない。訪れる人も守る人もおらず、朽ちかけた靖国神社。明治時代には現在の法政大学の場所にも狸が住み着いていたということだが、現代の千代田区では皇居以外には狐狸は住まないだろう。しかし、鬱蒼とした木々と抜く人のいない雑草。誰もいないといっても、例えばコイズミという100歳を超えたホームレスが縁の下に住み着いているというのはピクチャレスクな効果を減じるものではないだろう。近所の親たちはあんな不気味なところに行ってはいけませんといい、子どもたちは怖いもの見たさに探検に行きたがる。そのとき、靖国神社はそれ自体アート作品(インスタレーション)になるといっていいのだが、宗教的にもその禍々しさによって、これまでとは全く別の、戦争とか〈大日本帝国〉とかから解放された聖性を恢復するかもしれない。