情動的現実

 酒井隆史「経験的事実から情動的事実へ――コントロール社会の一指標」
 http://www.shiojigyo.com/en/column/0605/main.cfm


「情動的現実」という言葉を知る。最近考えている諸々とも関連があるかと思うので、抜き書きしてみる。先ず、その前提として;


表象を介して人々を誘導するといったイデオロギーの作用よりも現在、きわだってあらわれてきたのは、情動のダイレクトなコントロールです。この権力による情動のダイレクトなコントロールという側面が、規律というパラダイムに対して優位に立ち、あるいはより厳密に言うならば、規律という長い歴史をもつ権力のパラダイムに変容をもたらしているのです。

政治的権力や国家権力の正当化は、もはや国家の理性といったものや統治的判断の妥当性といったものを介しておこなわれるのではありません。それは情動的な回路を通しておこなわれるのです。

もし、イデオロギーというものが、ある種の象徴的一貫性のみかけをもたねばならないとすれば、その条件が崩れつつあるということはいえます。ただし、権力を考えるときにかつて以上にイデオロギーの位置が低下しているというとき、いまやこの一貫性のみかけが必要とされないというところにその理由があります。権力は、もっともらしい表象を構成することを介して、言い方をかえれば、一貫性のみせかけのある世界に想像的に縫合することで、ある程度、安定性のあるアイデンティティを与えることで、人に働きかけること―――従来のイデオロギーの主要な機能である―――をあまり重視しません。むしろ問題なのは、いまここでダイレクトに人々の情動に働きかけることです。「溜飲を下げる」という出来事は、まさに情動の次元で生じることであり、それが政治の原理になるという事態は、必ずしも特殊な一時的混乱ではないかもしれない。あたらしい権力の姿がそこに一端をみせていると考えるべきかもしれないのです。
「情動的次元の操作」において構成される「事実」――「情動的事実」。ブライアン・マッスミの言葉;

マッスミの議論では、論理言説的論証の依拠する経験的事実と、情動的事実は、確実性を求めているという点で、共通であり、競合しています。しかし情動的事実は、その同語反復的性格によって、経験的事実よりも容易に確実性を確保する傾向にある。情動的事実は、経験的事実と論理言説的論証が不可避にはらむ不確定なモメントを一切、斥けてくだされる純粋な、まるで「雷のような」決断に対応しています。その揺るぎない決断のためには、分析や検討、議論のような、不透明な現在の時間は可能なかぎり排除されねばならないのです。こうした知的な過程そのものである不透明な現在こそが、未来へと不確実性をもたらし、誤謬へと行き着いてしまうのだ、というわけです。ごちゃごちゃと考えたり迷ったり議論したり、そうした時間は排除されねばならず、すばやく、逡巡なく、断言しなければならない。まさに「小泉劇場」といわれるものの背後にある仕掛けもこのようなものでしょう。小泉首相のまさにしばしば根拠のとぼしい「ワンフレーズ」や、しばしば露呈されるバカバカしい「暴言」ですが、それを指摘されてもびくともしないのは、それがうまく人々を「だましている」というのではなく、情動的事実をのみ狙っているからであり、それに成功しているからです。そしてそれは、現在、情動にかかわるきわだった権力装置として君臨しているテレビを介してのみ可能なのです。