「天皇制」という用語の起源(メモ)

承前*1

近代天皇像の形成 (岩波現代文庫)

近代天皇像の形成 (岩波現代文庫)

安丸良夫『近代天皇像の形成』から;


天皇制という用語は、日本共産党が指導した政治運動のなかでおそらく一九二八年から用いられ、やがて三一年テーゼと三二年テーゼをへて、近代日本の国家権力を集約する概念として用いられるようになった。日本共産党は、一九二二年の最初の綱領草案の第一項に「君主制の廃止」を掲げていたが、二八年の第一回普選にさいしてもおなじスローガンが第一におかれ、選挙活動のなかでそれが「天皇制打倒」などという表現に転化したのである。三二年テーゼのばあいは、ドイツ語テキストのMonarchieが天皇制と訳されて、「日本における具体的情勢の評価に際しての出発点とならねばならぬ第一のものは、天皇制の性質及び比重である」と、その重要性が強調された。この用語が一般国民のボキャブラリーとして広く用いられるようになったのは、敗戦直後の天皇論議以来のことであり、発生史的には批判陣営の用語だったから、擁護派の立場からは、たとえば「『天皇制』といふ語を用ゐることには、皇室の存在に反対し、それを顛覆し『打倒』しようとする共産党の意向が含まれてゐる……この意義での『天皇制』といふものは事実として存在したのではなく、共産党の恣に構造した架空のもの、虚偽のものに過ぎない」*2と、用語自体が拒否された。
三二年テーゼによれば、天皇制は、寄生的封建的地主階級と急速に発展してきたブルジョアジーに立脚しながら、しかしそれとは相対的に独立して大きな役割をもつ、「似而非立憲的形態で軽く粉飾されているに過ぎない」絶対君主制である。絶対君主制とは、封建的な性格をもつ君主制が、資本主義的生産様式の発展に対応してその「絶対的性質」を強め、官僚制や軍隊を独自に発展させた国家権力である。三二年テーゼや『日本資本主義発達史講座』に代表されるこの見解では、天皇制とは、軍隊・警察・官僚制・帝国議会などを含む国家権力のことであり、またそれを支える社会的支柱という見地からは、寄生地主制や金融資本・財閥、家父長制的家制度なども支配の一環だったから、天皇制という用語は、しばしばこれらを包括する抽象概念として用いられた。こうして、天皇制は、天皇その人はもとより、狭義の国制史上の地位からも区別されて、近代日本社会を分析するさいの基本概念となり、さまざまな含意をもつ複雑な言葉となって、マルクス主義者以外の人びとにも広く用いられるようになった。(pp.15-17)
さらに、「天皇制」に「精神構造」を組み込んだのは戦後の丸山眞男学派である;

そのとらえ方の要点は、近代日本社会の全体を上からの制度的近代化の急速な進展と、その基底にある共同体的な精神構造や行動様式との結合・交錯・葛藤・矛盾の展開としてとらえるところにあり、共同体的なものの温存と利用は、はじめは国体の権威的受容を容易にするが、やがて近代化と共同体的なものとのあいだに矛盾と葛藤が深まり、主体的な対処を欠いたままに共同体的なものの噴出により、近代日本国家の全システムが崩壊していったのだ(略)
こうしたとらえ方は、西欧近代社会との比較史的観点にたつ点でマルクス主義と共通性をもっており、制度的近代化はマルクス主義における絶対主義権力による上からの近代化に、共同体の温存と利用はおなじく封建制の遺存と利用に照応している。しかし、封建的中間勢力の抵抗力の弱さを指摘し、中性国家観の欠如、権力と権威の一体化、「国体」の精神の内面への浸透、権力の放恣化などを強調する丸山学派のばあい、日本近代史における前近代的要素の把握は、講座派マルクス主義とも大きく異なっていて、その前近代性はいっそう強調されているといえる。このとらえ方は、マルクス主義の用語法でいえば、アジア的生産様式に対応する精神形態というべきものにあたり、M・ウェーバーの読解を介して、敗戦直後の大塚久雄川島武宜の見解にもつながるし、「一木一草に天皇制がある。われわれの皮膚感覚に天皇制がある」(「権力と芸術」)と断じた竹内好の見解にも対応していよう。(pp.17-18)
安丸氏による総括から;

前近代対近代という図式は、啓蒙的に明快で、私たちを励ます力があった。だがそこpには、日本社会の特質を西欧をモデルにした発展段階論に引きよせて処理するという単純化があり、その後に台頭した日本社会論・日本文化論に対抗する理論としては十分に有効ではなかった、と私は思う。また、二つの理論は、一九三〇年ごろから敗戦までのもっとも暗い時代の体験をふまえて構築され、戦後民主主義時代感覚をそれに対置したような性格をもっており、その意味でやはりひとつの時代の産物としての限定的性格をもっていた、ともいえよう。(後略)(pp.18-19)
さらに、

(前略)津田*3や和辻*4が指摘したように、極端な非合理性や全体主義は、明治初年の神道国教主義や昭和の超国家主義などに顕著なもので、文明開化期から一九二〇年代までの歴史も、それとおなじ色彩でぬりつぶすことはできない。また、一見、非合理的で原始以来の伝統のようにさえみえるような制度や観念にも、その形成過程を点検すると、そうした特徴をもたらした歴史的な由来があって、表相にとらわれた規定では肝心の論点をとり逃がす可能性がある。(後略)(pp.19-20)