承前*1
dennouprionさん*2から「死刑に賛成する人は応報感情がおもな根拠なので、パラドクスを大して感じないだろうと思いますが」という突っ込みをいただいた。
「応報感情」について思ったこと少々。「応報感情」は、自分の身内や友人を殺された人の感情と、それ以外の人々(社会の第三者的成員)の感情に分けられると思う。勿論、その境界はリジッドなものではない。身内の人の「応報感情」についていえば、私にとっての〈重要な他者〉の存在というのはその他の人間の死によって等価交換的に清算できるものではないので、常に究極的には挫折することが運命づけられている。却って、その喪失の重大さを増大せしめるのではないかとも思われる。しかしながら、自分にとっての〈重要な他者〉を殺した奴がぬくぬくと生存していることが許せないという感情は十分に理解可能である。関東大震災の時に大杉栄とその家族が官憲の関係者に虐殺された*3。その後、大杉の同志であった幾人のアナキストは、大杉虐殺に対する報復テロとして、官憲関係者を襲撃した。重要なことは、彼らが自らの行為が私的な「応報感情」に発するもので、政治的には無意味なものであることを自覚していたということである。つまり、「応報感情」それ自体はあくまでもプライヴェートなものである。被害者の身内の「応報感情」を根拠にして死刑制度を肯定するのは、個人の私的感情の満足ということに対して国家或いは公法が積極的にサポート(介入)することここで問題となるのは、個人の私的感情の満足ということに対して国家或いは公法が積極的にサポート(介入)することを肯定することであり、ここで問題になるのはそうしたサポート(介入)の是非であろう。少なくとも自由主義の立場において、そうした介入を是認するのは難しいのではないだろうか。私も是認は難しいと思う。私見によれば、こうした問題には〈正しい亜細亜人〉として対処すべきである。ここでいう〈正しい亜細亜人〉というのは、仁/不仁の区別ができるということである。〈正しい亜細亜人〉にとっては、同じ殺生であっても、仁なる殺生と不仁な殺生を区別することができる。法システムに仁/不仁の区別を導入するのは難しいかも知れない。しかし、法システムの実際の作動は常にcasuisticsを伴いつつなされてきたといえるし、たんに機械的に法の適用を行うなら、人間としての法律家は不要であろう。仁なる殺生に対しては、政治的に免責決議を行うという奥の手もあろう。
被害者の身内以外の第三者的な人々が関わる場合はどうなのだろうか。先ず被害者の身内の「応報感情」の発露を恐れるという立場があるだろう。たしかに、極道団体の抗争や新左翼党派の〈内ゲバ戦争〉のようなものが蔓延すれば、社会的平和は保持できなくなる。しかし、被害者の身内の「応報感情」を死刑制度によって国家が代理的に満足せしめ、それによって身内の「応報感情」の自力的な発露を抑圧するということは、個人のプライヴェートな感情への国家の介入ということで是認することはできない。法的なリスクと〈返り討ち〉されるかもしれないというリスクを引き受けつつ〈報復〉したいという感情について、国家を含む第三者は肯定も否定もすべきではない*4。報復が起こっても、具体的な行為を法的に処理し、仁/不仁の区別を考慮するという仕方で十分に対処できると思われる。なお、「応報感情」の満足というのは究極的には挫折を運命づけられているということを再び忘れてはならない。
社会の第三者的な成員が抱く「応報感情」として考えられるのは、あと、自らが属し・生きる秩序が、ノモスであれコスモスであれ、殺人という出来事によって毀損され、その損失を何とか埋め合わせしなければいけないという感情であろう。これについては、前に私が呈示したパラドクスが当嵌ってしまう。たしかに短期的にはノモス若しくはコスモスを破壊した者を吊すことによって、ノモス若しくはコスモスの傷は癒着するかも知れない。しかし、そのための死刑ということ自体が殺人者自身を誘惑するとすれば、将来的にはノモス若しくはコスモスのさらなる破壊が予測させる。
ここで注意しなければいけないのは、そうした感情が屡々別の期待の偽装である可能性があるということである。つまり、死刑(さらには公的な処罰一般)の持つ共同体形成能力という効果への期待。このことは、(論理的には)〈正しい〉は〈正しくない〉の否定としてしか存立しないということと関係がある。この辺りは、「応報感情」から離れるので、1つだけ指摘すると、ここで究極的に勝利するのは吊された死刑囚である。ジラール流にいえば、共同体の〈意志〉において殺されたスケープ・ゴートは殺された瞬間、共同体の救世主として、逆に当の共同体(及びその成員)の上に君臨し、それを呪縛し続けるからだ*5。
ところで、「応報感情」が社会的に問題化するのは、あまり根拠はないのだが、世俗化ということと関係があるのかも知れない。重要な他者を喪失しつつ(missing)生きる仕方として、〈仏門に入る〉ということが考えられるが、現実的には「仏門」はきわめて狭いからだ。
因みに、殺人という出来事に対する社会的対処については、エヴァンス=プリチャードが調査したヌアー族的知恵を賞賛する。
*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060429/1146310325
*2:http://d.hatena.ne.jp/dennouprion/
*3:竹中労は、甘粕は犯人ではなく、彼自身がスケープ・ゴートにされたという立場を採っている。
*4:そうした感情を処理できるのは宗教的昇華だけだと思うが、それならばなおのこそ、政教分離の原則において、国家の介入は禁止されなければならないだろう。私は宗教の〈アジール性〉を恢復させるべきだとは思っているが、それと政教分離とをどのように折り合いを付けるべきなのかはまだわからない。
*5:共同体を存立させるのは〈正しい〉行いだけでなく、〈悪行〉によっても可能である。共犯者の共同体。