アクシデント/インシデント/歴史

承前*1

今福龍太「雨の到来」(『図書』740、pp.46-53、2010)の続き。


(前略)歴史とは、ある意味でアクシデントの連続を外部の視点から記述したものである。そこでは歴史を根底から動かしているものこそ、革命や戦争のような大事件(accident)だと考えられてきた。いいかえれば、歴史という意識は、アクシデントにひたすら注目し、それに焦点を当てる思想なのである。「歴史」とは、世界をアクシデントの連鎖として捉えるシステムでありイデオロギーである、と定義することは可能であろう。しかもそのアクシデントには、偶然の力はなく、ある種の因果律や意思が働いており、歴史が歴史として確定するためには出来事や事件はすでに偶発的で不確定な文法のなかで認識されてはいない。出来事の背後にはかならず必然的な原因や由来が存在すると考えることによって、歴史が想定するクロノス的時間の連続性は保証されるからである。
したがって当然、歴史のなかに偶発的なインシデントがそのままの形で登場することはなかった。偶然の運が歴史的な発見を拓いた経緯を、〈セレンディピティserendipityというそれ自体は魅力的な概念を通じて考えようとする主張はある。だが、コロンブスによるアメリカ大陸の「発見」やカブラルによるブラジルの「発見」など、航海者の地図の読みまちがえによってもたらされた偶然をもとに、歴史はセレンディピティの産物だ、と逆説的に言うとき、むしろ「歴史」というイデオロギーは強化されるだけで終わる。やはり歴史というイデオロギー自体は、インシデントを対象にすることはできないのだ、と言わねばならない。だが、人間と他者、人間と外界のあいだの深い関係性やコミュニケーションの基点には、むしろ偶有性がある。そして自然のなかに遍在する偶有性の原理は、まさに歴史の外部にある日常の「偶景」を媒介にしてはじめて、社会的なものと接続されるにちがいない。
近代の歴史は偶有性の原理を認めなかった。みずから進歩する歴史の先端に立つと嘯きながら好戦的な支配と帝国的な侵略をくりかえす大国の横暴が、そうした歴史に正統性を与えつづける。だが、雨の到来によって目覚めた私の皮膚が、いまや別の歴史、別の時間の存在を人間の風景のなかにあまねく探り当てようとしているのだ。(後略)(p.52)
今福氏のテクストから特に〈理屈っぽい〉部分を抜粋してみた。
そういえば、以前陰謀理論の人は「〈偶然〉を認めることができない」と述べたことを思い出した*2